常陸江戸氏
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常陸江戸氏(ひたちえどし)は、常陸国を発祥とする武家。本姓は藤原氏。鎮守府将軍・藤原秀郷を祖とする那珂氏が祖である。「通」を通字とする。 平安時代末期、秀郷の子孫・藤原公道の子・通直が河辺大夫を名乗り、その子・通資が那珂郡を領し那珂氏を名乗った。しかしその後の家系は傍証無く定まらない。鎌倉時代は御家人だったとみられる。南北朝時代になると那珂氏は南朝方につき、常陸瓜連城の楠木正家に従い活動したが、北朝の佐竹氏らに攻められ、一族の殆どが滅亡した。しかし、那珂通辰の子・通泰は生き残り、その後は北朝方について活動、那珂郡江戸郷を封ぜられた。子の通高の代に江戸氏を称するようになる。通高は守護佐竹義篤(佐竹氏9代当主)の娘(中御前)を娶り、度々軍功をあげた。 通高は小田氏の乱の最中、難台城攻めで戦死し、その子・通景は父の戦功により、戦で活躍できなかった大掾氏旧領の河和田(現・水戸市内)周辺を足利氏満より与えられて移った。その子通房の代には上杉禅秀の乱が勃発し、鎌倉公方足利持氏についた通房は、禅秀方に味方して共に没落した大掾氏一族の馬場氏の拠点である馬場城(後の水戸城)方面へ進出した。応永33年(1426年)または応永29年(1422年)、通房は馬場城主・大掾満幹の留守中に馬場城を攻め落とした。その後は馬場城(水戸城)を本拠地として那珂川中下流部で勢力を振るう。その後、守護・佐竹氏内部で山入の乱と呼ばれる内訌が発生すると積極的に介入し、江戸氏の立場を高めていった。 通房の後から通雅までは系図に混乱が見られる。通房の長子・修理亮通秀が早世したためで、通房・修理亮通秀・通長・通雅の世代関係に諸説あり、それに伴い彼らの兄弟たちの系譜関係も変動している。中山信名本では「通房-修理亮-通長-通雅」と直系、宮本茶村本では「通房-修理亮-通長、通長の弟・通雅」、小宮山楓軒本では通房の子が修理亮・通長・通雅の兄弟となっている。 江戸通長・通雅の代には、それまでの佐竹氏勢力下での拡大から、自力で南方へと進出した。このため南部の小幡氏・小田氏・鹿島氏一族の烟田氏、徳宿氏などと衝突した。 江戸通雅は晩年、江戸氏は佐竹氏から「一家同位」の家格を認められ、江戸氏の名誉が高まった。次代・通泰は佐竹氏に従っていたが、古河公方家の家督争いなどには独自路線をとって介入するなど、混乱が続く常陸西部及び南部に進出した。その子・忠通の代に佐竹義昭が佐竹氏を継いだのちに佐竹氏と江戸氏の関係が急速に悪化、天文20年(1551年)に忠通は佐竹氏に従った。忠通の跡は病弱な嫡男・通政ではなく孫・重通が継ぎ、佐竹氏に従い後北条氏とも戦っている。一方佐竹氏とは関係なく南部への進出は続けており、重通は常陸府中に拠点を置く大掾氏を激しく攻めている。 天正16年(1588年)、家臣の神生氏と一門の江戸通澄が対立し、神生氏が江戸氏を離反する「神生の乱」が起こった。神生氏側に鯉淵氏一族が付いており、旧来の一族と新興の一門の対立があった可能性が指摘されている。この鎮圧の際に江戸重通の長男・通升が戦死、神生氏は額田小野崎氏に保護された。このため江戸氏と額田小野崎氏の対立となり、江戸氏は佐竹氏の支援を受け額田城を攻めたが、神生・額田小野崎氏側は伊達氏が支援し決着がつかなかった。翌年和平が成立し神生氏が額田城を退去、また当事者の江戸通澄も同年に死去、この騒乱は終息したが、江戸氏の勢力は衰退した。 天正18年(1590年)小田原征伐がおこり、豊臣秀吉は小田原城を包囲し、関東地方・東北地方の諸氏に参陣を命じた。佐竹氏は後北条氏と対立し、秀吉と結びついていたことから参陣したが、江戸氏は北条氏の働きかけもあって参陣しなかった。秀吉は佐竹義重に常陸21万貫の所領安堵状を発給する。これを楯に佐竹義重は一気に南下、水戸城及び周辺諸城を落とした。重通は妻の兄で娘を養女としていた結城晴朝の許に逃げのび、これにより江戸氏は滅亡した。のち重通の次男・水戸宣通は結城秀康に仕え1,000石を有した。その後、水戸氏は福井藩士として高家100俵となった。
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