常陸笠間氏とは? わかりやすく解説

常陸笠間氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/07 00:39 UTC 版)

笠間氏」の記事における「常陸笠間氏」の解説

下野宇都宮氏一族である塩谷朝業の子笠間時朝を祖としている。時朝は常陸国笠間12ヶ郷を領し初めて「笠間」を名乗った。時朝は武人としてだけでなく、和歌にも優れ浄土宗深く帰依した3代目笠間盛朝以降系譜判然としないが、室町時代初頭当主笠間家朝(長門孫三郎を称する)で、笠間12ヶ郷のうち石井郷の半分鎌倉府御料所であったことから、家朝と次の代の宗朝は鎌倉公方に従って室町幕府支援鎌倉府抵抗続けていた宇都宮氏宗家対立した。ところが、15世紀後半になると宇都宮氏宗家求心力高まり笠間氏もこれに従って従来通字として「朝」の字を用いていたのを改め宇都宮氏烏帽子親として「綱」の字を与えられることになる(ただし、戦国時代中期当主であった笠間高広元服期に宇都宮尚綱戦死後混乱にあったために一字受けていない)。 15世紀末の当主とみられる笠間資綱宇都宮氏に対して陰謀企てたことが露見し出奔し重臣寺崎氏らが宇都宮氏庇護求めている。高広の子推定される笠間綱家の代の天正12年1584年)に同じ宇都宮家中の益子氏争い天正15年1587年になってようやく主君である宇都宮国綱に対して謝罪起請文提出している。 通説では、天正18年1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際に笠間綱家後北条氏加担したため、宇都宮国綱滅ぼされたとされているが、宇都宮国綱佐竹義宣とともに秀吉拝謁した際に随行した宇都宮氏重臣中に笠間綱家含まれていることが佐竹氏記録から判明しており、後北条氏への加担事実ではない。恐らく、笠間氏先の益子氏との争いなどで反抗的だ宇都宮氏に見なされて滅ぼされたと考えられている。なお、笠間領の処分には秀吉重臣である増田長盛関与しており、宇都宮国綱豊臣政権許可得て笠間氏滅ぼしたことがうかがえるその他に桓武平氏大掾氏多気氏から分かれた村岡氏の支流存在する

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