常陸小栗御厨の小栗氏とは? わかりやすく解説

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常陸小栗御厨の小栗氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/23 01:17 UTC 版)

常陸小栗氏」の記事における「常陸小栗御厨の小栗氏」の解説

大掾氏」を参照 天慶の乱平将門滅亡した後、将門のいとこ(諸説あり)・平貞盛は甥・維幹(繁盛の子)を養子として、常陸国与えた。 維幹は常陸大掾任じられ以後子孫大掾の職を世襲し、やがて職名転じて家名となり、維幹の直系大掾氏名乗り常陸平氏本宗となった。 この大掾氏から吉田氏豊田氏行方氏・鹿島氏真壁氏東条氏・下妻氏・小栗氏等々の8支族が分出するが、このうち小栗氏は、維幹の孫である大掾重義しげよし、重幹(繁幹)の子)が常陸国拠り創始した家柄であるとされる1183年起こった志田義広源頼朝叔父)の挙兵事件野木宮合戦)のとき、小栗氏大掾氏に従って義広方に荷担している。また『寛政重修諸家譜』には、重能(=重義)は平治合戦において討死その子・重成(しげなり)は源平合戦のとき、壇ノ浦の戦い討死したことが記されている。なお、『吾妻鏡』には1193年建久4年)に小栗重成重病であるとの記載があるので、壇ノ浦の戦いでは重成は戦死していなかった可能性もある。 その後詳細は明確ではないが、重成の曾孫重信(しげのぶ)は南方号し、さらにその曾孫重政しげまさ)を祖とする河澄・厚科・大関金尾屋の諸氏その子孫称した足利基氏偏諱受けた基重(もとしげ、重政の孫)の代から鎌倉公方仕えたが、その子・満重(満弘(重弘)の弟)は1411年10月鎌倉公方足利持氏に叛して兵を挙げ、持氏より派遣され小山満泰(持政の父)の討伐軍の撃退成功するその後の上禅秀の乱(1416年)でも満重は上杉禅秀方に与して持氏に反抗するが、敗北して降伏戦後、持氏に所領大半没収されたことで再び反乱を起こすが、1423年には持氏自ら兵を率いて反乱の鎮圧成功し敗れた満重は自殺した小栗満重の乱)。なお、その本貫地である小栗御厨現在の茨城県筑西市)は、室町幕府御料所直轄地)である中郡荘隣地であり、一連の反抗室町幕府中央の意向受けた動きであったとする解釈もある(京都扶持衆)。 その後は満重の遺子・助重が1440年結城合戦武功挙げて旧領回復するが、享徳の乱通じて小栗氏劣勢に立たされ、1455年には持氏の遺児足利成氏攻撃受けてついにその本貫地である小栗御厨現在の茨城県筑西市)を失ってしまったという(なお、小栗満重の乱後、山内上杉氏所領となり、足利成氏小栗御厨支配していた上杉氏攻めたとする説もある)。没落した助重はそのまま出家して宗湛入道号し足利将軍家仕えた。絵をよくし、当代一人者と称せられた。

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