上郷文庫(1923-1936)
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「飯田市立上郷図書館」の記事における「上郷文庫(1923-1936)」の解説
1923年(大正12年)10月10日、上郷青年会の運営する私立図書館として、上郷文庫が上郷小学校西館の1教室を借用して開館した。文庫になった教室は30畳の北向きで、床板は軋み、270冊の蔵書は1つの書棚にすべて収まってしまうものだったが、青年らは自らの文庫を誇りとした。開館は農閑期(10 - 4月)は毎月1日・11日・21日、農繁期(5 - 9月)は毎月1日と16日で、貸出冊数は3冊、貸出期間は次の貸出日までであった。なお貸し出しは村民であれば誰でも可能であったが、1回3銭と有料で、延滞すると倍額になった。この貸出料は本の修繕に利用された。閉架式を採用しており、文庫の廊下に書名を記した木札をずらりと並べ、貸出希望者は木札を窓口に差し出して本を借りた。この木札群は蔵書目録の役割を果たし、来館者は蔵書を一目で確認できた。図書館職員は青年会に新設された図書部の部員12人が担当した。図書部員は無報酬で貸出、新刊書の購入・受け入れ、木札作成、統計処理、目録作成などの図書館業務をこなしたので、青年会の部会の中で最も大変な役回りであった。 翌1924年(大正13年)には上郷小教師による2日間に及ぶ経済学の講義や雑誌『解放』の記者による「マルクス経済学の大要」と題した3日間の講習会を開催した。同年度の予算は216円、1927年(昭和2年)度は224円であった。1927年(昭和2年)度の購入図書は青年運動を反映し、共産主義革命や社会運動に関するものが主で、普通選挙やプロレタリア文学に関する本も多かった。このように高度な本が中心の上郷文庫に対し、各集落の文庫は気軽に読める本を所蔵する図書館として維持された。同年度の貸出冊数は1,174冊、利用者数は1,058人であった。 この頃、青年会幹部らは自由青年連盟(Liberal Younger's League、LYL)に加入し、カール・マルクスの『資本論』を学習する会を開催、農村の疲弊や小作農の団結などを訴えていた。一方、上郷文庫に補助金を拠出していた上郷村当局は青年会の左傾化を危惧し、1924年(大正13年)には青年会の計画した文庫の補助金を半分に削る決定をした。さらに同年3月17日には下伊那郡のLYLとその関係者およそ200人を一斉に取り調べる「LYL事件」が発生、7月17日にはLYLの機関誌『第一線』第1号(発禁)を販売したとして、青年会幹部4人が罰金刑に処された。追い打ちをかけるように、村当局は方向転換をしなければ翌年の補助金を出さないと通告し、青年会は保守派の会長を選出して右寄りの団体に転換した。購入図書も日本主義・国家主義の著者の本や農業書が増加するなどの変化が見られた。その裏ではひそかに社会運動や社会主義学習を続ける青年会員がおり、右翼にも左翼にも関わらない一派も存在するなど、上郷青年会はさまざまな思想を持つ者が寄り集まる組織となった。 1927年(昭和2年)7月18日、上郷文庫は信用組合謄写版室へと移転した。移転先は8畳に縮小し、青年会の運営では購入できる図書の数も限られることから、前・図書部長で青年会の副会長に就任した木下英人を中心に、御大典記念事業として村立図書館を建設する5か年計画を立案した。表向きは図書館建設であったが、裏では村に建設費を出させて図書館経営の実務は青年会が掌握し、自前の活動拠点を得ることを画策したのである。青年会としても年200円の積立金を着実に積み増し、1932年(昭和7年)には目標の1,000円に達した。そこで青年会は1934年(昭和9年)2月13日に「会館設立実行委員会」を設置して図書館建設の検討に入り、1935年(昭和10年)1月12日の新年総会の席で図書館設立趣意書と年内の建設完了を期する決議文を採択、趣意書に計画書を添えた建議書を村当局に提出した。建議書では当初の村立移行計画をやめて青年会の運営によることが記されており、思想統制が進む中で自由な図書館活動を維持する方針に転換した。その後、村立か青年会立で右往左往することになるが、結局青年会立で決着し、設計、指名競争入札と進んだものの地鎮祭が行われたのは10月29日で、年内完工は不可能となっていた。施工は地元・上郷村の大工が請け負ったが、青年会員も勤労奉仕した。
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