開館までの経緯
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1964年(昭和39年)7月1日、富山県史編纂室が富山県立図書館内に開設された。その後、1966年(昭和41年)7月に編纂要綱が決定され、1987年(昭和62年)3月27日の県史編纂室の解散まで約20年にわたって県史編纂事業が行われたが、この間に県史編纂室は国内外の図書館、文書館ないし研究機関より多数の史資料の提供を受けた。富山県公文書館の開設は、こうした県史編纂過程において蒐集された史資料を架蔵するという目的が一つにあったのである。このような観点からすでに1971年(昭和46年)に越中史壇会が、1978年(昭和53年)に富山県歴史教育研究会が文書館建設を要望している。 また、1983年(昭和58年)に神奈川県が情報公開制度を整備したことをはじめとして、各自治体においてはその制度の整備が要請されていたという時代的状況があった。富山県においてもこのような情勢に鑑み、1983年(昭和58年)4月に策定の富山県民総合計画において情報公開制度の準備が課題とされ、これに係る窓口の開設や公文書の管理体制の整備が計画されている。また、富山県庁内の書庫が狭隘であり、増加していく公文書を保存するための施設としても公文書館の建設が求められていた。 このような情勢を背景として、1983年(昭和58年)9月に富山県は財団法人地方自治協会に公文書館に関する調査研究を委託し、1984年(昭和59年)3月に同協会より「富山県公文書センターの調査研究報告書」の提出を受けた。同報告書に基づき富山県は公文書館の具体的建設計画をまとめ、1985年(昭和60年)10月12日に起工式を挙行し、1986年(昭和61年)11月に竣工、史資料の搬入や整理を完了した後、1987年(昭和62年)4月1日に開館した。全国で16番目に開館した公文書館であった。
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開館までの経緯(青木コレクション)
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「那珂川町馬頭広重美術館」の記事における「開館までの経緯(青木コレクション)」の解説
1996年(平成8年)に、前年1月に発生した阪神・淡路大震災で被災した青木藤作の遺族から、歌川広重の肉筆画を中心とするコレクション寄贈の申し出が馬頭町(現・那珂川町)にあったことが美術館設立のきっかけである。 青木藤作(1870年〈明治3年〉 - 1946年〈昭和21年〉)は、栃木県塩谷郡熟田村狭間田(現・さくら市)に生まれ、肥料店を佐久山・氏家・西那須野で営み、実業家として成功する一方で、広重の肉筆画や版画をはじめとする美術品を収集し、また、徳富蘇峰と生涯にわたる交流を持ち続けた人物であった。 遺族は、コレクションを一括して所蔵・展示するところへの寄贈を望み、栃木県の援助を受けて町立の「馬頭町広重美術館(現・那珂川町馬頭広重美術館)」設立が決定した。
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開館までの経緯
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伊勢斎宮の遺跡は、南北朝期以降荒廃し、その遺跡も不明だったが、1970年(昭和45年)頃からの宅地造成に伴い、三重県多気郡明和町古里地区に斎宮遺跡の存在することが明らかとなり、1979年(昭和54年)には史跡指定を受けた。これを受け、三重県も斎宮跡発掘調査事務所を開設して本格的な調査発掘と保存に乗り出し、1983年(昭和58年)には史跡公園「斎宮跡」が開園した。1985年(昭和60年)には、斎宮跡に県立博物館を設置することが発案され、教育委員会文化課のもとで建設に向けた準備が進んだ。博物館予定地自体が遺跡であるため、慎重な発掘調査を経て、1988年(昭和63年)1月に起工、1989年4月より業務を開始し、10月に開館した。
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開館までの経緯
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現在の真壁伝承館が建つ敷地にはかって、真壁中央公園に隣接する形で真壁中央公民館、桜川市歴史民俗資料館が建っていたが、いずれも老朽化していた。これら施設に変わる多目的複合施設の建設事業は真壁町、岩瀬町、大和村が合併し2005年に桜川市になる際の合意事項として、新市建設計画の中で合併特例債を使った整備事業に位置づけられていた。 2007年10月17日に市はホームページにて、真壁中央公民館、歴史民俗資料館を取り壊し、地上3階建ての多目的複合施設を建設する経費18億円の事業概要を明らかにし、公募型プロポーザルによる設計業者の募集を発表した。しかしながら、この発表を受けた市民の内から、公園が無くなることを危惧する声や、市側の説明不足を批判する声があがった。これらの声に対し市は、公園は残す、当初は地上3階建てとした構想は地上2階建てとする、などの方針で応じた。 設計業者の公募型プロポーザルでは、提案書を提出した58社(参加表明したのは110社)より第1次審査が2007年12月1日に行われ5社が選定された。そして12月14日の公開第2次審査にて設計組織ADHが最優秀に選ばれた。 設計業者決定後も市は、基本設計に対してパブリックコメントの実施や、前節で記述したように施設配置に関しての市民ワークショップの実施など、市民の意見を取り入れる姿勢を示している。 また、建設地は江戸時代の真壁藩、笠間藩の陣屋跡であった事から、発掘調査が設計と並行し2009年7月から8月末にかけて行われた。その発掘で陣屋の堀や池の跡や、古墳時代、戦国時代の遺物が見つかった。発掘調査の結果次第では設計の大幅な制限も考えられたが、むしろ、発掘で見つかった堀や池の形を庭や建物内部の床に再現するなど、発掘成果が設計に活かされている。 設計期間中、桜川市長選挙が行われ、多目的複合施設建設事業の規模縮小を掲げた候補者もいたが、それらを押さえて多目的複合施設事業化の実績等をアピールした現職市長の中田裕が、2009年10月11日再選されている。 施工業者については、2009年9月16日に執行予定の入札に対し公正な入札執行に疑義を挟む情報が寄せられたことから入札が延期されたことがあったが、五洋建設(東京都文京区)が11月21日に落札した。そして2010年1月9日に着工した。 建物の完成を控え、市は施設名称を2010年12月1日から2011年1月15日の期間で募集した。結果、応募総数999作、応募者663名の内、「真壁伝承館」の名が選ばれた。その選定理由のひとつは、「伝承」という言葉には、この施設が地域の歴史・文化・伝統を伝え続ける為の中心になって欲しいとの想いが見られる、とのことである。 2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震を乗り切り、7月16日に竣工、7月27日には竣工記念式典が開催され、9月1日、真壁の伝統を未来に伝える「真壁伝承館」が開館した。
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開館までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 06:44 UTC 版)
「昭和館 (栃木県庁舎)」の記事における「開館までの経緯」の解説
栃木県庁は下都賀郡栃木町(現・栃木市)から河内郡宇都宮町に移転して以来、2度火災で焼失している。そして栃木町時代から数えて4代目の庁舎が1937年(昭和12年)1月に着工し、1938年(昭和13年)10月3日に完成した。総工費は約120万円であった。日中戦争が開戦し、物資や資金が統制される中で建設せねばならず、栃木県民による寄付や無償奉仕が行われた。太平洋戦争中は、外壁を黒く塗って空襲を逃れた。 老朽化を理由とした4代目県庁舎の建て替えは、1986年(昭和61年)から議論されてきたが、庁舎の位置や階数をめぐって調整に時間がかかり、この間に知事は2回交代した。一方、周辺の景観と調和していることから保存を求める声が上がり、一部保存が決定した。完成からちょうど65年となる2003年(平成15年)10月3日に閉庁式が挙行され、宇都宮市立昭和小学校の6年生が「蛍の光」を演奏する中、栃木県旗の降納と福田昭夫(栃木県知事)、梶克之(栃木県議会議長)の両名による「栃木県庁」の表札の取り外しが行われ、行政庁舎としての役目を終了した。同月中に取り壊し工事に着手し、2004年(平成16年)には最大秒速1ミリメートルという速さで曳家が行われた。この曳家工事は約6,000トンある建物をその場で44度回転させ、南西方向へ34メートル移動した後、46度回転させて東へ27メートル移動させるという、大規模かつ複雑なものであった。 曳家によって空いた土地には5代目の県庁舎が建設され、2007年(平成19年)12月14日に落成式が、2008年(平成20年)1月4日の仕事始めに合わせて開庁式が挙行された。この開庁式に合わせて昭和館も開館した。その4日後の1月8日には「ふくしレストラン」が館内で開店し、最初の客として福田富一知事らが来店した。
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開館までの経緯
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日本の皇室は、京都御所で儀式の際に用いる屏風や刀剣、歴代天皇の宸筆などの古来代々継承されてきた伝来品のほか、近代以降は東京の皇居宮殿、御所で用いた調度品、華族、財界人、海外の賓客などから献納された美術品、院展などの展覧会で買い上げた美術品など、多くの美術品や文化財を所有していた。こうした皇室所有品は「御物(ぎょぶつ)」と称された。第二次世界大戦直後、かつての皇室財産は相当数が国有財産に移された。正倉院と正倉院宝物は宮内庁の正倉院事務所、京都御所、桂離宮、修学院離宮は宮内庁京都事務所の管理下におかれ、陵墓出土品や古文書・典籍などは宮内庁書陵部の管轄となった。これら以外の、第二次大戦後も天皇の私物にとどまった文化財は引き続き「御物」と呼ばれることになった。 1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇が崩御したことにともない、相続税の納税のため、遺産の範囲を確定する必要が生じた。天皇の晩年には、戦後「御物」と称されたものであっても、国有財産なのか天皇の私物なのかが曖昧になっていたのである。そして「三種の神器」をはじめ、歴代天皇の肖像・宸筆、皇室の儀式に用いる屏風や刀剣類など、皇室にゆかりの深い品は、皇室経済法第7条により、引き続き「御物」として天皇の私物とされた。その一部は相続税の課税対象となっている。残りの絵画、書、工芸品などの美術品類約3,180件(約6,000点)は1989年(平成元年)6月、遺族から国に寄贈された。これらの国有財産となった美術品類を適切な環境で保存研究し、一般に公開する目的をもって1993年(平成5年)に、皇居東御苑内に「三の丸尚蔵館」が開館した。地上2階建て、総床面積約1600平方メートル、1階には約160平方メートルの展示室と売店を設けたほか、約1000平方メートルの収蔵庫を備えている。当初は保存研究を主目的とした収蔵施設として建設を計画し、収蔵品の公開については博物館・美術館への貸出等を行って展示することを検討していたが、皇室の意向もあり当館内に展示室を設けることになったという。
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開館までの経緯
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1888年(明治21年)、宮内省に臨時全国宝物取調局(局長九鬼隆一)が設置され、日本各地の社寺等の文化財(当時の用語では「宝物」)の調査が行われた。その結果、京都・奈良には特に文化財が集中しており、それらを収蔵保管する施設の整備が急務とされた。こうして当時の日本政府は京都と奈良に国立の博物館を設置することとした。当時、東京には東京国立博物館の前身にあたる博物館がすでに設置されていたが(1872年創立)、1889年(明治22年)5月、宮内大臣通達により、東京の博物館を「帝国博物館」と改め、同時に「帝国京都博物館」と「帝国奈良博物館」の官制が定められた。京都国立博物館の前身である帝国京都博物館が機関として発足したのはこの時である。初代の館長は森本後凋(こうちょう)という人物であったが、同人の在任中は博物館開館以前の準備期間であり、実質的な初代館長は1894年(明治27年)2月に就任した山高信離(のぶあきら)である。1890年(明治23年)には帝国京都博物館の建設地が東山七条の現在地に定められた。この土地は方広寺(京の大仏)旧境内にあたり、1890年当時は、東半が民有地、西半は七条御料地(旧恭明宮)であった。恭明宮とは、明治初年の神仏分離後、それまで御所の御黒戸に安置されていた仏像や歴代天皇の位牌を安置していた施設である(1870年設置、1876年廃止)。 博物館の本館は片山東熊の設計になる煉瓦造平屋建て、フレンチルネサンス様式の建物で、1892年(明治25年)6月に建築工事に着工、1895年(明治28年)10月に竣工した。諸準備が整い、博物館が開館したのは1897年(明治30年)5月のことである。設計者の片山は赤坂離宮のほか、奈良国立博物館本館や東京国立博物館表慶館の設計にも携わった、宮廷建築家である。本館は当初3階建てで計画されたが、1891年(明治24年)に発生した濃尾地震でレンガ造2階建ての建物が多く倒壊したことを踏まえ、平屋建てに変更された。 なお、京都には帝国京都博物館開館以前に府営の博物館があった。府営博物館は1875年(明治8年)、京都御所の御米倉に設けられ、翌1876年に河原町二条下ルの府立勧業場に移転したが、1883年(明治16年)に閉鎖されている。この府営博物館の所蔵品1,000件余は帝国京都博物館に引き継がれた。そのうちには後に重要文化財に指定された銅造不動明王立像、舞踊図小屏風などが含まれている。
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