開館までの経緯とは? わかりやすく解説

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開館までの経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/30 16:33 UTC 版)

富山県公文書館」の記事における「開館までの経緯」の解説

1964年昭和39年7月1日富山県編纂室が富山県立図書館内に開設された。その後1966年昭和41年7月編纂要綱決定され1987年昭和62年3月27日県史編纂室の解散まで20年わたって県史編纂事業が行われたが、この間県史編纂室は国内外図書館文書館ないし研究機関より多数史資料の提供を受けた富山県公文書館開設は、こうした県史編纂過程において蒐集された史資料架蔵するという目的一つにあったのであるこのような観点からすで1971年昭和46年)に越中史壇会が、1978年昭和53年)に富山県歴史教育研究会文書館建設要望している。 また、1983年昭和58年)に神奈川県情報公開制度整備したことをはじめとして各自治体においてはその制度整備要請されていたという時代的状況があった。富山県においてもこのような情勢鑑み1983年昭和58年4月策定富山県総合計画において情報公開制度準備課題とされ、これに係る窓口開設公文書の管理体制の整備計画されている。また、富山県庁内の書庫狭隘であり、増加していく公文書保存するための施設としても公文書館建設求められていた。 このような情勢背景として、1983年昭和58年9月富山県財団法人地方自治協会公文書館に関する調査研究委託し1984年昭和59年3月に同協会より「富山県公文書センター調査研究報告書」の提出受けた。同報告書に基づき富山県公文書館具体建設計画をまとめ、1985年昭和60年10月12日起工式挙行し、1986年昭和61年11月竣工史資料搬入整理完了した後、1987年昭和62年4月1日開館した全国16番目に開館した公文書館であった

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開館までの経緯(青木コレクション)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 21:22 UTC 版)

那珂川町馬頭広重美術館」の記事における「開館までの経緯(青木コレクション)」の解説

1996年平成8年)に、前年1月発生した阪神・淡路大震災被災した青木藤作遺族から、歌川広重肉筆画中心とするコレクション寄贈申し出馬頭町(現・那珂川町にあったことが美術館設立のきっかけである。 青木藤作1870年明治3年〉 - 1946年昭和21年〉)は、栃木県塩谷郡熟田村狭間田(現・さくら市)に生まれ肥料店を佐久山氏家西那須野営み実業家として成功する一方で広重肉筆画版画はじめとする美術品収集しまた、徳富蘇峰生涯にわたる交流持ち続けた人物であった遺族は、コレクション一括して所蔵・展示するところへの寄贈望み栃木県援助受けて町立の「馬頭町広重美術館(現・那珂川町馬頭広重美術館)」設立決定した

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開館までの経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/05 15:52 UTC 版)

斎宮歴史博物館」の記事における「開館までの経緯」の解説

伊勢斎宮遺跡は、南北朝期以降荒廃し、その遺跡不明だったが、1970年昭和45年)頃からの宅地造成に伴い三重県多気郡明和町古里地区斎宮遺跡存在することが明らかとなり、1979年昭和54年)には史跡指定受けた。これを受け、三重県斎宮跡発掘調査事務所開設して本格的な調査発掘保存乗り出し1983年昭和58年)には史跡公園斎宮跡」が開園した1985年昭和60年)には、斎宮跡県立博物館設置することが発案され、教育委員会文化課のもとで建設向けた準備進んだ博物館予定自体遺跡であるため、慎重な発掘調査経て1988年昭和63年1月起工1989年4月より業務開始し10月開館した

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開館までの経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 22:40 UTC 版)

真壁伝承館」の記事における「開館までの経緯」の解説

現在の真壁伝承館が建つ敷地はかって真壁中央公園隣接する形で真壁中央公民館桜川市歴史民俗資料館建っていたが、いずれも老朽化していた。これら施設に変わる多目的複合施設建設事業真壁町岩瀬町大和村合併し2005年桜川市になる際の合意事項として、新市建設計画の中で合併特例債使った整備事業位置づけられていた。 2007年10月17日に市はホームページにて、真壁中央公民館歴史民俗資料館取り壊し地上3階建て多目的複合施設建設する経費18億円の事業概要明らかにし、公募型プロポーザルによる設計業者募集発表したしかしながら、この発表受けた市民の内から、公園無くなることを危惧する声や、市側の説明不足批判する声があがった。これらの声に対し市は、公園は残す、当初地上3階建てとした構想地上2階建てとする、などの方針応じた設計業者公募型プロポーザルでは、提案書提出した58社(参加表明したのは110社)より第1次審査2007年12月1日行われ5社が選定された。そして12月14日公開第2次審査にて設計組織ADHが最優秀に選ばれた。 設計業者決定後も市は、基本設計に対してパブリックコメント実施や、前節記述したように施設配置に関して市民ワークショップ実施など、市民意見取り入れ姿勢示している。 また、建設地江戸時代真壁藩笠間藩陣屋跡であった事から、発掘調査設計並行し2009年7月から8月末にかけて行われた。その発掘陣屋の堀や池の跡や、古墳時代戦国時代遺物見つかった発掘調査結果次第では設計大幅な制限考えられたが、むしろ、発掘見つかった堀や池の形を庭や建物内部の床に再現するなど、発掘成果設計活かされている。 設計間中桜川市選挙が行われ、多目的複合施設建設事業規模縮小掲げた候補者もいたが、それらを押さえて多目的複合施設事業化実績等アピールした現職市長中田裕が、2009年10月11日再選されている。 施工業者については、2009年9月16日執行予定入札対し公正な入札執行疑義を挟む情報寄せられたことから入札延期されたことがあったが、五洋建設(東京都文京区)が11月21日落札した。そして2010年1月9日着工した建物完成控え、市は施設名称2010年12月1日から2011年1月15日の期間で募集した結果応募総数999作、応募者663名の内、「真壁伝承館」の名が選ばれた。その選定理由のひとつは、「伝承」という言葉には、この施設地域の歴史文化・伝統伝え続け為の中心になって欲しいとの想い見られるとのことである。 2011年3月11日東北地方太平洋沖地震乗り切り7月16日竣工7月27日には竣工記念式典開催され9月1日真壁伝統未来伝える「真壁伝承館」が開館した

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開館までの経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 06:44 UTC 版)

昭和館 (栃木県庁舎)」の記事における「開館までの経緯」の解説

栃木県庁下都賀郡栃木町(現・栃木市)から河内郡宇都宮町移転して以来2度火災焼失している。そして栃木町時代から数えて4代目の庁舎1937年昭和12年1月着工し1938年昭和13年10月3日完成した総工費は約120万円であった日中戦争開戦し物資資金統制される中で建設せねばならず、栃木県民による寄付無償奉仕が行われた。太平洋戦争中は、外壁黒く塗って空襲逃れた老朽化理由とした4代目県庁舎建て替えは、1986年昭和61年)から議論されてきたが、庁舎位置階数めぐって調整時間がかかり、この間知事は2回交代した一方周辺の景観調和していることから保存求める声が上がり一部保存決定した完成からちょう65年となる2003年平成15年10月3日閉庁式が挙行され宇都宮市立昭和小学校6年生が「蛍の光」を演奏する中、栃木県旗降納福田昭夫栃木県知事)、梶克之栃木県議会議長)の両名による「栃木県庁」の表札取り外しが行われ、行政庁舎としての役目終了した同月中に取り壊し工事着手し2004年平成16年)には最大秒速1ミリメートルという速さ曳家が行われた。この曳家工事は約6,000トンある建物その場44回転させ、南西方向へ34メートル移動した後、46回転させて東へ27メートル移動させるという、大規模かつ複雑なものであった曳家によって空いた土地には5代目県庁舎建設され2007年平成19年12月14日落成式が、2008年平成20年1月4日仕事始め合わせて開庁式が挙行された。この開庁式に合わせて昭和館開館したその4日後の1月8日には「ふくしレストラン」が館内開店し最初の客として福田富一知事らが来店した。

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開館までの経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 05:24 UTC 版)

三の丸尚蔵館」の記事における「開館までの経緯」の解説

日本の皇室は、京都御所儀式の際に用い屏風刀剣歴代天皇宸筆などの古来代々継承されてきた伝来品のほか、近代以降東京皇居宮殿御所用いた調度品華族財界人海外賓客などから献納された美術品院展などの展覧会買い上げ美術品など、多く美術品文化財所有していた。こうした皇室所有品は「御物ぎょぶつ)」と称された。第二次世界大戦直後、かつての皇室財産相当数国有財産移された。正倉院正倉院宝物宮内庁正倉院事務所京都御所桂離宮修学院離宮宮内庁京都事務所管理下におかれ、陵墓出土品古文書典籍などは宮内庁書陵部管轄となった。これら以外の第二次大戦後も天皇私物とどまった文化財引き続き御物」と呼ばれることになった1989年昭和64年1月7日昭和天皇崩御したことにともない相続税納税のため、遺産範囲確定する必要が生じた天皇晩年には、戦後御物」と称されたものであっても国有財産なのか天皇私物なのかが曖昧になっていたのである。そして「三種の神器」をはじめ、歴代天皇肖像宸筆皇室の儀式用い屏風刀剣類など、皇室にゆかりの深い品は、皇室経済法第7条により、引き続き御物」として天皇私物とされた。その一部相続税課税対象となっている。残り絵画、書、工芸品などの美術品類約3,180件(約6,000点)は1989年平成元年6月遺族から国に寄贈された。これらの国有財産となった美術品類を適切な環境保存研究し一般に公開する目的をもって1993年平成5年)に、皇居東御苑内に「三の丸尚蔵館」が開館した地上2階建て、総床面積1600平方メートル1階には約160平方メートル展示室と売店設けたほか、約1000平方メートル収蔵庫備えている。当初保存研究主目的とした収蔵施設として建設計画し収蔵品公開については博物館美術館への貸出等を行って展示することを検討していたが、皇室意向もあり当館内展示室を設けることになったという。

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開館までの経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 21:22 UTC 版)

京都国立博物館」の記事における「開館までの経緯」の解説

1888年明治21年)、宮内省臨時全国宝物取調局(局長九鬼隆一)が設置され日本各地社寺等文化財当時の用語では「宝物」)の調査が行われた。その結果京都・奈良には特に文化財集中しており、それらを収蔵保管する施設整備急務とされた。こうして当時日本政府京都奈良国立博物館設置することとした。当時東京には東京国立博物館前身にあたる博物館がすでに設置されていたが(1872年創立)、1889年明治22年5月宮内大臣通達により、東京博物館を「帝国博物館」と改め同時に帝国京都博物館」と「帝国奈良博物館」の官制定められた。京都国立博物館前身である帝国京都博物館機関として発足したのはこの時である。初代館長森本後凋こうちょう)という人物であったが、同人在任中は博物館開館以前準備期間であり、実質的な初代館長1894年明治27年2月就任した山高信離(のぶあきら)である。1890年明治23年)には帝国京都博物館建設地東山七条現在地定められた。この土地方広寺京の大仏旧境内にあたり1890年当時は、東半が民有地、西半は七条御料地(旧恭明宮であった。恭明宮とは、明治初年神仏分離後、それまで御所御黒戸安置されていた仏像歴代天皇位牌安置していた施設である(1870年設置1876年廃止)。 博物館本館片山東熊設計になる煉瓦造平屋建て、フレンチルネサンス様式建物で、1892年明治25年6月建築工事着工1895年明治28年10月竣工した。諸準備整い博物館開館したのは1897年明治30年5月のことである。設計者片山赤坂離宮のほか、奈良国立博物館本館や東京国立博物館表慶館設計にも携わった宮廷建築家である。本館当初3階建て計画されたが、1891年明治24年)に発生した濃尾地震レンガ造2階建ての建物多く倒壊したことを踏まえ平屋建て変更された。 なお、京都には帝国京都博物館開館以前府営博物館があった。府営博物館1875年明治8年)、京都御所御米倉に設けられ、翌1876年河原町二条下ルの府立勧業場に移転したが、1883年明治16年)に閉鎖されている。この府営博物館所蔵品1,000件余は帝国京都博物館引き継がれた。そのうちには後に重要文化財指定され銅造不動明王立像舞踊図小屏風などが含まれている。

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