編纂過程とは? わかりやすく解説

編纂過程

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/23 14:07 UTC 版)

宣和奉使高麗図経」の記事における「編纂過程」の解説

徐兢は高麗出仕機会利用して諸事について質問し使者職務果たし」、帰国後「耳目及んだところによりて、広く云われている内容集め中国類似した部分簡潔にし、異なっている部分取り上げるようにした」。1124年宋徽宗宣和六年)に完成し三百余条、全四十となった別に事物形状について解説に図を用い」、高麗文物わかりやすく紹介した

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/22 01:18 UTC 版)

白氏文集」の記事における「編纂過程」の解説

白居易文集編纂は、元和10年815年)、江州司馬左遷されたことを契機とする。当初親友元稹により編まれ長慶4年824年)に『白氏長慶集50巻として完成した以降白居易人生の節目ごとに新たな作品加え自身の手で『白氏文集』を完成させてゆくことになる。 長慶4年824年):元稹編『白氏長慶集50巻。 太和2年828年):推定5巻程度追加太和9年835年):『文集60巻本廬山東林寺奉納開成元年836年):65巻本東都聖善寺に奉納開成4年839年):67巻本蘇州南禅院奉納金沢文庫旧蔵本の祖本会昌2年842年):『白氏長慶集50巻本以降作品20巻にまとめた『後集』を加え、『文集70巻本日本盛んに読まれた。 会昌5年845年):70巻本以降作品5巻にまとめた『続後集』を加え、『文集75巻本会昌6年846年):白居易没。 のち唐末の混乱期に『続後集』の大半散逸し北宋期に70巻本根幹若干増補おこなった。現在主に通行するのは後唐書写本による71巻本である。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 16:07 UTC 版)

至正条格」の記事における「編纂過程」の解説

ウカアト・カアン治世至元4年1338年3月中書平章政事アギラ(阿吉剌,Agila)に『大元通制』に依拠して条格を編纂せよとの命令がなされ、また後至元6年1340年7月には翰林学士承旨デンハ(腆哈,Denha)・奎章閣学士康里巎巎らに『大元通制』を改訂せよとの命令なされた至正5年1345年11月編纂終了し時の中書右丞相アルラト部アルクトゥ阿魯図,Arqtu)らは入奏しウカアト・カアンに『至正条格』の名を賜ることを請願した。この法典は2909条を所収し、その中には制詔150条・条1700条・断例1059条が含まれており、旧暦至正6年4月5日1346年4月26日)には『至正条格』中の条格・断例部分(2759条)が天下頒布された。 『至正条格』は大元ウルス22年わたって使用されたが、旧暦至正28年8月2日1368年9月14日)に明軍大元ウルス首都大都攻略し大元ウルスモンゴル高原北遷した(北元)後、『至正条格』は用いられなくなり次第散逸していった。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 15:00 UTC 版)

宋元学案」の記事における「編纂過程」の解説

明朝一代儒学歴史論じた『明儒学案』を完成させた黄宗羲は、つづいてその淵源思いを寄せ宋代元代儒学史を論ずべく『宋元学案』の完成期した。しかし黄宗羲着手した後すぐに没し本書完成息子黄百家依託された。この黄宗羲自身によって執筆されたものが黄氏原本である。 黄宗羲にその完成依託された黄百家であったが、これも完成させられずに没し、さらに『宋元学案』の完成黄百家の子黄宗羲の孫)の黄千人任された。この黄千人親交があり、また自身黄宗羲私淑していたのが全祖望である。全祖望は黄千人要請を受け、『宋元学案』の完成鋭意努力する。後人によると全祖望増訂過程大きく4点特色があったとされる。それは修定・補本・次定・補定とされるもので、「次定に所謂修補なく、補本に所謂原本なく、修定は必らず由来する所あり、補定は兼ねて其の特立著わす」(校刊宋元学案条例)とまとめられる修定黄宗羲原本にあって全祖望が増損したもの。標記は「黄某原本、全某修定」 補本‐黄宗羲原本になくて、全祖望が特に立てたもの。標記は「全某補本」 次定‐黄宗羲原本にあって全祖望はただその巻第を分けただけのもの。標記は「黄某原本、全某次定」 補定‐黄宗羲原本にあって全祖望はその巻第を分けて特別に学案を立てたもの。標記は「黄某原本、全某補定」 全祖望はこれらの増訂行い、さらに全100巻の「序録」を付け加えて全体骨子完成させた。しかしこの全祖望も『宋元学案』を完成させることは出来ず没した全祖望没後、その稿本弟子の盧鎬の手渡り盧氏によって完成期待された。盧氏全祖望稿本一部を鈔写する傍ら全書出版尽力したが、結局出版目途立たず没し、全氏稿本盧氏稿本盧氏の子孫が保存することになった。この盧氏所蔵の全氏稿本盧氏稿本手に入れ出版したのが、黄宗羲玄孫の黄璋、その子の黄徴、孫の黄直垕である。これが黄氏校補本である。 『宋元学案』は『明儒学案』ほどに流行しなかった。そのため全祖望郷里の人であった材と馮濠は、改めて『宋元学案』の再校訂を志し、黄氏校補本を始め諸種版本取り寄せて比較校訂・増補加え、ようやく完成させたのが現行本『宋元学案』の原本である。既に時代道光となっており、黄宗羲没後80年余り経っていた。 王材らの利用した版本以下の通り(『宋元学案冒頭の「宋元学案考略」による)。 黄宗羲原本 全祖望修補本 二老閣鄭氏刊本全祖望黄宗羲と縁のある鄭氏依頼し出版したもの。「序録」と「第十七巻横渠学案上巻」のみ。全祖望死亡して事業止んだ。なおこの時の版本全祖望未定稿であったとされ、次の盧氏蔵本異な部分多かった。 月船盧氏所蔵稿本全祖望高弟の盧鎬は、全氏の没後、全氏の『宋元学案稿本手に入れた盧氏は全氏稿本を鈔写するとともに出版急いだが適わず、稿本そのまま盧氏の子孫の保護することになった庵蔣氏所蔵底校残本全祖望稿本別本(不完全本)で、その弟子の蔣学鏞の手渡ったもの。60巻の目があったとされる基本的に盧氏蔵本と同じであるが、まま盧氏蔵本にない部分含んでいた。 余姚黄氏校補本黄宗羲の子孫が編纂したもの。盧氏蔵本手に入れて出版したもので、全86であった。 王材らの編輯方針厳格で、黄宗羲原本全祖望稿本とを明白に区別し全祖望校訂の状態も併せて注記している。また黄氏刊本86巻目を、100巻目に改訂して全祖望「序録」の原貌に戻した詳細は『宋元学案冒頭附された「校刊宋元学案条例」に詳しい。 王材らの完成させた『宋元学案』は馮濠の私財によって出版したが、アヘン戦争によって版本焼失した。後、何紹基援助の下、王材の綿密な校訂経て再度出版された。これが何本であり、現行本の原本に当たるものである。ただしこの版本出版後すぐに火事焼失し市中出回った数は少数止まった以後、何本を底本にした幾つかの版本存在する代表的なものは龍汝霖の刻本で、その他に石印本(上海文瑞本)、万有文庫本や世界書局本(『四朝学案』所収)、四部備要本、国学基本叢書本などが存在する2007年現在比較利用されているものに、中華書局出版した点本新式句読施したもの)で所謂中華書局本がある。中華書局本は、事実上何紹基本を利用したのであるが、底本としては龍汝霖の刻本選択し四部備要万有文庫世界書局本などで補正したのである。また『黄宗羲全集第3冊‐第6冊(2005年版1992年旧版も4冊本)にも収められた。 なお王材と馮濠は全祖望遺志受け継いで、『宋元学案』に洩れ史料網羅して宋元学案補遺』を作った。これは現在『四明叢書』などに収められている。なお巻第は『宋元学案』と同じく作られており、宋元時代学者総論した附録3巻添付されている。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 15:55 UTC 版)

元史」の記事における「編纂過程」の解説

前年皇帝即位後、大元ウルス華北から追い落とした洪武帝洪武2年1368年2月1日に詔を出すと、宋濂主幹として『元史』の編纂始めた半年後の8月に一旦に最初編纂終わったが、元朝最後の皇帝順帝本紀がないといった問題点指摘され、翌洪武3年2月編纂再開し8月完成見た編纂携わった宋濂高啓はいずれ当代一流文人であったが、『元史』には多く問題点があった。その原因として第一に、明が成立して即座に編纂が行われたことが挙げられる。普通、正史編纂には恣意的なものが混じらないように、100年程度間隔をおいてら行うのが良いとされる第二に、開始から1年半というごく短時間にて完成したことが挙げられる。その次の正史である『明史』が94年という、歴代でも最長時間をかけたのとは好対照である。 洪武帝ここまで編纂急いだのは、漢族王朝復興したという立場から、夷狄王朝である元を一刻も早く過去存在となすと、自らの正当性誇示したかったゆえと推察される。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/12 20:38 UTC 版)

大南寔録」の記事における「編纂過程」の解説

阮朝における実録編纂は、嘉隆10年1811年)に國朝實録編纂のための史料の提供を求める詔に始まる。この企画嘉隆帝在世中は実現せず次の明命帝即位直後起居注官を設置し明命元年6月國史寔録編纂の諭を出して、そのための機関として国史館を作らせた。翌年5月国史館官制発布し国史館総裁の阮文仁副総裁鄭懐徳・范登興以下纂修編集など63名の体制列聖寔録の作成開始させ、明命6年には嘉隆帝の寔録編纂のための史料収集開始したとの記録がある。並行して玉牒編纂開始して明命5年1824年)に草本上程された。しかし、この前後に総裁副総裁相次いで没したこともあってか寔録作成作業滞った様である。 明命11年1830年)、明命帝は如清使に対して明実録入手密命与えている。明命14年1833年)に再び寔録編纂の命が下されたが、そこでは現在の草稿は質が低いと批判しており、翌年には史官入れ替えが行われた。この勅諭受けて作成され草本明命16年1835年)に奉呈され、明命帝が自ら筆を執ってこれを完成稿に仕上げた。これ以降前編第3紀までは各紀ごとに草本上進されて皇帝がこれに筆を加える形式となる。これには当時史官漢学素養明命帝求めるものに遠く及ばなかったことに加え皇帝自ら筆を執る(欽修)ことで、史実臣下行状などに対す毀誉褒貶をも皇帝が握る意図あったようである。しかし、第4紀以降この方式は放棄された。

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