編纂過程
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徐兢は高麗で出仕の機会を利用して「諸事について質問し、使者の職務を果たし」、帰国後「耳目の及んだところによりて、広く云われている内容を集め、中国と類似した部分は簡潔にし、異なっている部分を取り上げるようにした」。1124年(宋徽宗宣和六年)に完成し、三百余条、全四十巻となった。別に「事物の形状については解説に図を用い」、高麗の文物をわかりやすく紹介した。
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編纂過程
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白居易の文集の編纂は、元和10年(815年)、江州司馬に左遷されたことを契機とする。当初は親友・元稹により編まれ、長慶4年(824年)に『白氏長慶集』50巻として完成した。以降、白居易は人生の節目ごとに新たな作品を加え、自身の手で『白氏文集』を完成させてゆくことになる。 長慶4年(824年):元稹編『白氏長慶集』50巻。 太和2年(828年):推定5巻分程度の追加。 太和9年(835年):『文集』60巻本。廬山・東林寺に奉納。 開成元年(836年):65巻本。東都・聖善寺に奉納。 開成4年(839年):67巻本。蘇州・南禅院に奉納。金沢文庫旧蔵本の祖本。 会昌2年(842年):『白氏長慶集』50巻本以降の作品を20巻にまとめた『後集』を加え、『文集』70巻本。日本で盛んに読まれた。 会昌5年(845年):70巻本以降の作品を5巻にまとめた『続後集』を加え、『文集』75巻本。 会昌6年(846年):白居易没。 のち唐末の混乱期に『続後集』の大半が散逸し、北宋期に70巻本を根幹に若干の増補をおこなった。現在主に通行するのは後唐書写本による71巻本である。
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編纂過程
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 16:07 UTC 版)
ウカアト・カアン治世の至元4年(1338年)3月、中書平章政事アギラ(阿吉剌,Agila)に『大元通制』に依拠して条格を編纂せよとの命令がなされ、また後至元6年(1340年)7月には翰林学士承旨デンハ(腆哈,Denha)・奎章閣学士康里巎巎らに『大元通制』を改訂せよとの命令がなされた。至正5年(1345年)11月に編纂は終了し、時の中書右丞相でアルラト部のアルクトゥ(阿魯図,Arqtu)らは入奏し、ウカアト・カアンに『至正条格』の名を賜ることを請願した。この法典は2909条を所収し、その中には制詔150条・条格1700条・断例1059条が含まれており、旧暦至正6年4月5日(1346年4月26日)には『至正条格』中の条格・断例部分(2759条)が天下に頒布された。 『至正条格』は大元ウルスで22年にわたって使用されたが、旧暦至正28年8月2日(1368年9月14日)に明軍が大元ウルスの首都の大都を攻略し、大元ウルスがモンゴル高原に北遷した(北元)後、『至正条格』は用いられなくなり次第に散逸していった。
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編纂過程
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 15:00 UTC 版)
明朝一代の儒学の歴史を論じた『明儒学案』を完成させた黄宗羲は、つづいてその淵源に思いを寄せ、宋代と元代の儒学史を論ずべく『宋元学案』の完成を期した。しかし黄宗羲は着手した後すぐに没し、本書の完成は息子の黄百家に依託された。この黄宗羲自身によって執筆されたものが黄氏原本である。 黄宗羲にその完成を依託された黄百家であったが、これも完成させられずに没し、さらに『宋元学案』の完成は黄百家の子(黄宗羲の孫)の黄千人に任された。この黄千人と親交があり、また自身も黄宗羲に私淑していたのが全祖望である。全祖望は黄千人の要請を受け、『宋元学案』の完成に鋭意努力する。後人によると全祖望の増訂過程は大きく4点の特色があったとされる。それは修定・補本・次定・補定とされるもので、「次定に所謂修補なく、補本に所謂原本なく、修定は必らず由来する所あり、補定は兼ねて其の特立を著わす」(校刊宋元学案条例)とまとめられる。 修定‐黄宗羲原本にあって、全祖望が増損したもの。標記は「黄某原本、全某修定」 補本‐黄宗羲原本になくて、全祖望が特に立てたもの。標記は「全某補本」 次定‐黄宗羲原本にあって、全祖望はただその巻第を分けただけのもの。標記は「黄某原本、全某次定」 補定‐黄宗羲原本にあって、全祖望はその巻第を分けて特別に学案を立てたもの。標記は「黄某原本、全某補定」 全祖望はこれらの増訂を行い、さらに全100巻の「序録」を付け加えて全体の骨子を完成させた。しかしこの全祖望も『宋元学案』を完成させることは出来ずに没した。全祖望没後、その稿本は弟子の盧鎬の手に渡り、盧氏によって完成を期待された。盧氏は全祖望稿本の一部を鈔写する傍ら全書の出版に尽力したが、結局出版の目途が立たずに没し、全氏稿本と盧氏蔵稿本は盧氏の子孫が保存することになった。この盧氏所蔵の全氏稿本と盧氏蔵稿本を手に入れ出版したのが、黄宗羲の玄孫の黄璋、その子の黄徴、孫の黄直垕である。これが黄氏校補本である。 『宋元学案』は『明儒学案』ほどに流行しなかった。そのため全祖望の郷里の人であった王梓材と馮雲濠は、改めて『宋元学案』の再校訂を志し、黄氏校補本を始め、諸種の版本を取り寄せて比較校訂・増補を加え、ようやく完成させたのが現行本『宋元学案』の原本である。既に時代は道光となっており、黄宗羲没後80年余り経っていた。 王梓材らの利用した版本は以下の通り(『宋元学案』冒頭の「宋元学案考略」による)。 黄宗羲原本 全祖望修補本 二老閣鄭氏刊本全祖望が黄宗羲と縁のある鄭氏に依頼し出版したもの。「序録」と「第十七巻横渠学案上巻」のみ。全祖望が死亡して事業も止んだ。なおこの時の版本は全祖望未定稿であったとされ、次の盧氏蔵本と異なる部分が多かった。 月船盧氏所蔵底稿本全祖望の高弟の盧鎬は、全氏の没後、全氏の『宋元学案』稿本を手に入れた。盧氏は全氏稿本を鈔写するとともに出版を急いだが適わず、稿本はそのまま盧氏の子孫の保護することになった。 樗庵蔣氏所蔵底校残本全祖望稿本の別本(不完全本)で、その弟子の蔣学鏞の手に渡ったもの。60巻の目があったとされる。基本的に盧氏蔵本と同じであるが、まま盧氏蔵本にない部分を含んでいた。 余姚黄氏校補本黄宗羲の子孫が編纂したもの。盧氏蔵本を手に入れて出版したもので、全86巻であった。 王梓材らの編輯方針は厳格で、黄宗羲原本、全祖望稿本とを明白に区別し、全祖望の校訂の状態も併せて注記している。また黄氏刊本の86巻目を、100巻目に改訂して全祖望「序録」の原貌に戻した。詳細は『宋元学案』冒頭に附された「校刊宋元学案条例」に詳しい。 王梓材らの完成させた『宋元学案』は馮雲濠の私財によって出版したが、アヘン戦争によって版本も焼失した。後、何紹基の援助の下、王梓材の綿密な校訂を経て再度出版された。これが何本であり、現行本の原本に当たるものである。ただしこの版本も出版後すぐに火事で焼失し、市中に出回った数は少数に止まった。 以後、何本を底本にした幾つかの版本が存在する。代表的なものは龍汝霖の刻本で、その他に石印本(上海文瑞楼本)、万有文庫本や世界書局本(『四朝学案』所収)、四部備要本、国学基本叢書本などが存在する。2007年現在、比較的利用されているものに、中華書局の出版した校点本(新式の句読を施したもの)で所謂中華書局本がある。中華書局本は、事実上何紹基本を利用したものであるが、底本としては龍汝霖の刻本を選択し、四部備要、万有文庫、世界書局本などで補正したものである。また『黄宗羲全集』第3冊‐第6冊(2005年版。1992年旧版も4冊本)にも収められた。 なお王梓材と馮雲濠は全祖望の遺志を受け継いで、『宋元学案』に洩れた史料を網羅して『宋元学案補遺』を作った。これは現在『四明叢書』などに収められている。なお巻第は『宋元学案』と同じく作られており、宋元時代の学者を総論した附録3巻が添付されている。
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編纂過程
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 15:55 UTC 版)
前年に皇帝に即位後、大元ウルスを華北から追い落とした洪武帝は洪武2年(1368年)2月1日に詔を出すと、宋濂を主幹として『元史』の編纂を始めた。半年後の8月に一旦に最初の編纂が終わったが、元朝最後の皇帝順帝の本紀がないといった問題点が指摘され、翌洪武3年2月に編纂が再開し、8月に完成を見た。編纂に携わった宋濂・高啓らはいずれも当代一流の文人であったが、『元史』には多くの問題点があった。その原因として第一に、明が成立して即座に編纂が行われたことが挙げられる。普通、正史の編纂には恣意的なものが混じらないように、100年程度の間隔をおいてから行うのが良いとされる。第二に、開始から1年半というごく短時間にて完成したことが挙げられる。その次の正史である『明史』が94年という、歴代でも最長の時間をかけたのとは好対照である。 洪武帝がここまで編纂を急いだのは、漢族王朝を復興したという立場から、夷狄の王朝である元を一刻も早く過去の存在となすと、自らの正当性を誇示したかったゆえと推察される。
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編纂過程
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/12 20:38 UTC 版)
阮朝における実録の編纂は、嘉隆10年(1811年)に國朝實録編纂のための史料の提供を求める詔に始まる。この企画は嘉隆帝在世中は実現せず、次の明命帝は即位直後に起居注官を設置し、明命元年6月に國史寔録編纂の諭を出して、そのための機関として国史館を作らせた。翌年5月に国史館の官制を発布して国史館総裁の阮文仁、副総裁鄭懐徳・范登興以下纂修・編集など計63名の体制で列聖寔録の作成を開始させ、明命6年には嘉隆帝の寔録編纂のための史料収集を開始したとの記録がある。並行して玉牒の編纂も開始して、明命5年(1824年)に草本が上程された。しかし、この前後に総裁・副総裁が相次いで没したこともあってか寔録作成作業は滞った様である。 明命11年(1830年)、明命帝は如清使に対して『明実録』入手の密命を与えている。明命14年(1833年)に再び寔録編纂の命が下されたが、そこでは現在の草稿は質が低いと批判しており、翌年には史官の入れ替えが行われた。この勅諭を受けて作成された草本は明命16年(1835年)に奉呈され、明命帝が自ら筆を執ってこれを完成稿に仕上げた。これ以降、前編と第3紀までは各紀ごとに草本が上進されて皇帝がこれに筆を加える形式となる。これには当時の史官の漢学の素養が明命帝が求めるものに遠く及ばなかったことに加え、皇帝自ら筆を執る(欽修)ことで、史実や臣下の行状などに対する毀誉褒貶の権をも皇帝が握る意図があったようである。しかし、第4紀以降はこの方式は放棄された。
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