編纂物による言及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 07:43 UTC 版)
「敵は本能寺にあり」の記事における「編纂物による言及」の解説
寛永18年(1641年)に成立したとされる林羅山の『織田信長譜』では、大江山の出来事として「光秀曰敵在本能寺於是衆始知其有叛心(光秀曰く、敵は本能寺にあり。これに於いて衆はその叛心有るを知る)」という記述がある。 元禄年間(1688年 - 1704年)成立の軍記物『明智軍記』では「敵は四条本能寺・二条城にあり」と述べたとされる。 文政9年(1826年)完成の頼山陽の『日本外史』では光秀が桂川を渡る際に「吾敵在本能寺矣(吾が敵は本能寺に在り)」と述べた。この言葉が広く知られるようになったのは、この頼山陽の記述によるものである。
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