編纂時期とは? わかりやすく解説

編纂時期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/23 06:48 UTC 版)

輿図備志」の記事における「編纂時期」の解説

輿図備志』の編纂時期は1851年から1856年の間である。この根拠として『輿図備志第1冊京都廟典条で憲宗宗廟迎えた記録1851年)と同じ本である宮廟条の恩彦君墓と全渓大院君墓を「主上殿下哲宗)が己酉年に建てた」という記録1849年)、地理誌純祖廟号を「純宗」と表記したこと(1857年以前)、純祖の仁陵遷奉の記事1856年)などが挙げられる

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編纂時期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 15:01 UTC 版)

吾妻鏡」の記事における「編纂時期」の解説

明治時代歴史学者星野恒は、『吾妻鏡』記述のほとんどを日記即時記録)と解し原勝郎はその説に異を唱えた。しかし、原も後半日記だろうと推定したが、この両者見解に対して和田英松は、1912年大正元年)に「吾妻鏡古写本考」の中で、その全て後世編纂であるとし、編纂の時期北条政村北条時宗執権連署時代13世紀後半)推定した1913年大正2年)、和田同僚であった八代国治は、『吾妻鏡研究』において、将軍記の首書袖書)にある以下の3点注目する頼朝将軍記首書において、後鳥羽院後鳥羽上皇)の没後の諡は、延応元年1239年)の当初は「顕徳院」だったが、仁治3年7月8日1242年8月5日)に「後鳥羽院」と改められたと記述される。したがってそれ以前記述であるはずがない。 第42巻の宗尊将軍記の袖書きに、後深草院後深草上皇)が「正応三年1290年二月十一日、御落餝(出家)」とあり、書かれたのはそれ以降となる。 また後深草院を「院(御諱久仁)」とのみ記し没後の諡(おくりな)である「後深草院」とは記述していないので、それが書かれたのは、院が没する嘉元2年1304年7月以前である。 以上の各点から、『吾妻鏡』編纂は、正応3年1290年)から嘉元2年1304年)の間と見るか、あるいは宗尊将軍記だけが正応3年1290年以降であり、それ以前仁治2年1241年以降嘉元2年1304年)までのどこか、ということになる。 それに対して八代国治は、源氏三代将軍記とそれ以降三代将軍記とはその編纂態度大きな隔たりがあるとして編纂二段階説を唱える。そして前半編纂年代については、和田同様に元久2年1205年6月22日条の記事末尾に「今日未尅、相州室(伊賀守朝光女)男子平産左京兆是也)」とあることに着目し、「前三代将軍記は文永2年1265年3月28日から同10年1273年5月18日の間に於いて編纂したるものと考ふるは至當のことと信ず」と述べる。それは北条政村左京権大夫左京兆はその唐名であった期間である。そして後半三代将軍記については、宗尊将軍記の袖書から正応3年1290年)から嘉元2年1304年)の間とした。 長らくそれが定説とされてきたが、1960年代以降笠松宏至益田宗が、八代国治二段階説はそれを裏付ける積極的な証拠乏しいとして全て正応3年1290年以降正安2年1300年)頃から嘉元2年1304年)の間とした。その理由は以下の3点にまとめられる第一理由は、笠松宏至1962年発表した元久2年1205年)閏7月29日条の河野四郎通信与えたとされる三代将軍源実朝御教書についての検証である。八代も、それは「三島文書関東下知状」によって作られ記事であり、その「関東下知状」は偽文書であろうとしていたが、笠松宏至は同じ「三島文書」に残る正安2年1300年8月18日付の「六波羅下知状」から、その偽文書は、永仁5年1297年)に第9代執権北条貞時発令した永仁の徳政令根拠として起こした訴訟証拠として偽造されたものであることを明らかにした。つまり、三嶋大祝(みしまおおほうり)家の安胤が「永仁の徳政令」を利用して手放した土地取り戻そう企んだが、そのためには三嶋大祝家は三代将軍の頃から御家人であった偽証する必要があったのである。それが六波羅探題から鎌倉伝わり『吾妻鏡』編纂利用されたのは正安元年1299年以降となる。 第二理由は、1977年益田宗指摘である。すなわち、北条政村極官左京権大夫左京兆)であるので、死後極官呼ばれるのは通例であり、「左京兆是也」との割書注記をもって、それが書かれ時代北条政村生存中とすることは出来ないというものである第三理由は、『明月記抜粋鎌倉伝来時期である。『吾妻鏡』において『明月記』は、実朝将軍記を中心に17箇所利用されている。しかし、『明月記』は鎌倉時代には写本など無く原本藤原定家から子の藤原為家、そしてその子冷泉為相へと受け継がれ以降も京の冷泉家出たことが無い。その記事『吾妻鏡』利用されということは藤原為家の代に記述されたとは考えられず、訴訟のために鎌倉にも住み、後にはその娘を第8代将軍久明親王嫁がせるほどに鎌倉幕府高官親密になった冷泉為相が、編纂者依頼に応じて実朝に関する情報書き写して送った考える他はない。以上の点から八代国治編纂2段階説は根拠失い1980年代以降笠松宏至益田宗の説が支持され2000年平成12年)の五味文彦増補 吾妻鏡方法』においても、これを踏襲している。

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編纂時期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/17 08:09 UTC 版)

ドルム・シュネフタの冊子」の記事における「編纂時期」の解説

アイルランドの歴史キーティング英語版)は、17世紀に彼が書き上げたアイルランド史(英語版)』の執筆時にはこの冊子に当たらなかったようであるが、その存在把握していなかった訳ではなく、これを5世紀聖パトリック伝道以前編纂されたものである考えていた。19世紀学者オカリー(英語版)は『レンスターの書(英語版)』の中にこの冊子について記した傍注残されていることを発見した判読できない部分もあったが、傍注によればこの冊子コナハト王である「Dauíの息子」によって編纂されたものであった。「Dauíの息子」についてオカリーは「9人の人質ニール英語版)」の甥であり、聖パトリック同時代の人物でもある Dauí Galach の、その息子 Ernín であるという考え推しつつ、5世紀末に死んだコナハトDauí Tenga Uma英語版) の息子である可能性もあるとしている 。もっともフランシス・J・バーン英語版によれば、オカリーの挙げた2人の「Dauíの息子」は実際に同一人物である。 スイスケルト学者であるトゥールナイゼン(英語版)が1912年から1913年にかけて行った、この冊子の内容復元説得力のあるものであった。彼は、この冊子の編纂時期は8世紀初頭ではないか提案した一方編纂の時期9世紀10世紀ではないかとした学者もあったが、これについては現代では疑わしいとされる

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