編纂時期
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『輿図備志』の編纂時期は1851年から1856年の間である。この根拠として『輿図備志』第1冊の京都廟典条で憲宗を宗廟に迎えた記録(1851年)と同じ本である宮廟条の恩彦君墓と全渓大院君墓を「主上殿下(哲宗)が己酉年に建てた」という記録(1849年)、地理誌に純祖の廟号を「純宗」と表記したこと(1857年以前)、純祖の仁陵遷奉の記事(1856年)などが挙げられる。
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編纂時期
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明治時代の歴史学者星野恒は、『吾妻鏡』の記述のほとんどを日記(即時の記録)と解し、原勝郎はその説に異を唱えた。しかし、原も後半は日記だろうと推定したが、この両者の見解に対して和田英松は、1912年(大正元年)に「吾妻鏡古写本考」の中で、その全てが後世の編纂であるとし、編纂の時期は北条政村・北条時宗が執権・連署の時代(13世紀後半)と推定した。 1913年(大正2年)、和田の同僚であった八代国治は、『吾妻鏡の研究』において、将軍記の首書(袖書)にある以下の3点に注目する。 頼朝将軍記の首書において、後鳥羽院(後鳥羽上皇)の没後の諡は、延応元年(1239年)の当初は「顕徳院」だったが、仁治3年7月8日(1242年8月5日)に「後鳥羽院」と改められたと記述される。したがって、それ以前の記述であるはずがない。 第42巻の宗尊将軍記の袖書きに、後深草院(後深草上皇)が「正応三年(1290年)二月十一日、御落餝(出家)」とあり、書かれたのはそれ以降となる。 また後深草院を「院(御諱久仁)」とのみ記し、没後の諡(おくりな)である「後深草院」とは記述していないので、それが書かれたのは、院が没する嘉元2年(1304年)7月以前である。 以上の各点から、『吾妻鏡』の編纂は、正応3年(1290年)から嘉元2年(1304年)の間と見るか、あるいは宗尊将軍記だけが正応3年(1290年)以降であり、それ以前は仁治2年(1241年)以降嘉元2年(1304年)までのどこか、ということになる。 それに対して八代国治は、源氏三代の将軍記とそれ以降三代の将軍記とはその編纂態度に大きな隔たりがあるとして編纂二段階説を唱える。そして前半の編纂年代については、和田と同様に元久2年(1205年)6月22日条の記事の末尾に「今日未尅、相州室(伊賀守朝光女)男子平産(左京兆是也)」とあることに着目し、「前三代将軍記は文永2年(1265年)3月28日から同10年(1273年)5月18日の間に於いて編纂したるものと考ふるは至當のことと信ず」と述べる。それは北条政村が左京権大夫(左京兆はその唐名)であった期間である。そして後半の三代将軍記については、宗尊将軍記の袖書から正応3年(1290年)から嘉元2年(1304年)の間とした。 長らくそれが定説とされてきたが、1960年代以降、笠松宏至や益田宗が、八代国治の二段階説はそれを裏付ける積極的な証拠に乏しいとして、全てを正応3年(1290年)以降、正安2年(1300年)頃から嘉元2年(1304年)の間とした。その理由は以下の3点にまとめられる。 第一の理由は、笠松宏至が1962年に発表した、元久2年(1205年)閏7月29日条の河野四郎通信に与えたとされる三代将軍源実朝の御教書についての検証である。八代も、それは「三島文書・関東下知状」によって作られた記事であり、その「関東下知状」は偽文書であろうとしていたが、笠松宏至は同じ「三島文書」に残る正安2年(1300年)8月18日付の「六波羅下知状」から、その偽文書は、永仁5年(1297年)に第9代執権・北条貞時が発令した永仁の徳政令を根拠として起こした訴訟の証拠として偽造されたものであることを明らかにした。つまり、三嶋大祝(みしまおおほうり)家の安胤が「永仁の徳政令」を利用して手放した土地を取り戻そうと企んだが、そのためには三嶋大祝家は三代将軍の頃から御家人であったと偽証する必要があったのである。それが六波羅探題から鎌倉に伝わり『吾妻鏡』編纂に利用されたのは正安元年(1299年)以降となる。 第二の理由は、1977年の益田宗の指摘である。すなわち、北条政村の極官は左京権大夫(左京兆)であるので、死後も極官で呼ばれるのは通例であり、「左京兆是也」との割書(注記)をもって、それが書かれた時代を北条政村生存中とすることは出来ないというものである。 第三の理由は、『明月記』抜粋の鎌倉伝来時期である。『吾妻鏡』において『明月記』は、実朝将軍記を中心に17箇所も利用されている。しかし、『明月記』は鎌倉時代には写本など無く、原本が藤原定家から子の藤原為家、そしてその子の冷泉為相へと受け継がれ、以降も京の冷泉家を出たことが無い。その記事が『吾妻鏡』に利用されたということは、藤原為家の代に記述されたとは考えられず、訴訟のために鎌倉にも住み、後にはその娘を第8代将軍・久明親王に嫁がせるほどに鎌倉幕府高官と親密になった冷泉為相が、編纂者の依頼に応じて、実朝に関する情報を書き写して送ったと考える他はない。以上の点から八代国治の編纂2段階説は根拠を失い、1980年代以降、笠松宏至や益田宗の説が支持され、2000年(平成12年)の五味文彦『増補 吾妻鏡の方法』においても、これを踏襲している。
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編纂時期
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「ドルム・シュネフタの冊子」の記事における「編纂時期」の解説
アイルランドの歴史家キーティング(英語版)は、17世紀に彼が書き上げた『アイルランド史(英語版)』の執筆時にはこの冊子に当たらなかったようであるが、その存在を把握していなかった訳ではなく、これを5世紀の聖パトリックの伝道以前に編纂されたものであると考えていた。19世紀の学者オカリー(英語版)は『レンスターの書(英語版)』の中にこの冊子について記した傍注が残されていることを発見した。判読できない部分もあったが、傍注によればこの冊子はコナハト王である「Dauíの息子」によって編纂されたものであった。「Dauíの息子」についてオカリーは「9人の人質のニール(英語版)」の甥であり、聖パトリックと同時代の人物でもある Dauí Galach の、その息子 Ernín であるという考えを推しつつ、5世紀末に死んだコナハト王 Dauí Tenga Uma(英語版) の息子である可能性もあるとしている 。もっともフランシス・J・バーン(英語版)によれば、オカリーの挙げた2人の「Dauíの息子」は実際には同一人物である。 スイスのケルト学者であるトゥールナイゼン(英語版)が1912年から1913年にかけて行った、この冊子の内容の復元は説得力のあるものであった。彼は、この冊子の編纂時期は8世紀初頭ではないかと提案した。一方、編纂の時期は9世紀や10世紀ではないかとした学者もあったが、これについては現代では疑わしいとされる。
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