『東輿図志』と『青邱図』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/11 00:24 UTC 版)
「東輿図志」の記事における「『東輿図志』と『青邱図』」の解説
従来は『青邱図』が『東輿図志』の副図的性格を持っていたと考えられてきた。しかし、最近に至り、金正浩の思想、即ち、「地理が地図の根本」という思想に反映して、『東輿図志』が『青邱図』より後に編纂された点を否定している。そして、最近に『東輿図志』第1次編纂時期が『青邱図』編纂時期である1834年頃であることが明らかになるにつれ、『青邱図』編纂のために『東輿図志』の第1次編纂がなされたのではという主張が起こった. 『東輿図志』が『青邱図』の仕様書の役割をしたとみる見解の根拠は次の通りである。 2つの資料に載せられた編目はその数と項目がほとんど同じである。 『東輿図志』第1次編纂以後に変えられた行政体制変化が『青邱図』には全く現れていない。これは地誌を作った後すぐに地図が製作されたことを意味する、と主張する。 『東輿図志』の編目に現れた数値が簡略化されて『青邱図』に載せられている。例えば、咸鏡道富寧の穀賦条で、『東輿図志』では73,138石、『青邱図』では73100石となっている。これは地図には詳細に記すことができなかったため、100以下の切り捨てた数字を地理に載せたと考えられる。
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