奈良国立博物館本(地獄草紙益田家乙本)
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「辟邪絵」の記事における「奈良国立博物館本(地獄草紙益田家乙本)」の解説
画風から平安時代末期から鎌倉時代初期、12世紀の制作と考えられている。制作事情については正確なことは不明であるが、後白河法皇の蓮華王院の宝蔵に保管されていたことが記録されている「六道絵」の一部だったもので、現存する「地獄草紙」、「餓鬼草紙」、「病草紙」などと一連の作品であろうと推定されている。南都(奈良)との強い関係と、平安時代に宮中で修された宮廷歳末恒例の懺悔会である仏名会に用いた「地獄変御屏風」との関係も指摘される。 この絵巻は、かつて実業家で茶人の益田孝(益田鈍翁)が所蔵しており、「地獄草紙益田家乙本」と呼ばれていた。同じく益田家に所蔵されていた「沙門地獄草紙」を「地獄草紙甲本」と呼ぶのに対し「地獄草紙乙本」と称されていたものだが、この絵巻で責めさいなまれているのは人間ではなく、疫病や害悪をもたらす疫鬼である。すなわち、この作品は地獄の情景を描いたものではなく、悪鬼を退治する善神を描いたものであることから国宝指定名称は「辟邪絵」となっている。 天刑星、栴檀乾闥婆、神虫、鍾馗、毘沙門天王の絵がそれぞれの辟邪神の働きが付されている詞書とともに描かれる。かつては絵巻であったが、戦後に切断されて現在は5幅の掛幅装となっている。この絵と東京国立博物館本『地獄草紙』、福岡市美術館本『勘当の鬼図』の詞書は同筆であると見る説がある。 栴檀乾闥婆 神虫 鍾馗 毘沙門天王
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奈良国立博物館本
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旧蔵者にちなみ「原家本」ともいう。紙本著色、巻子装。寸法は縦26.5cm、全長453.9cm。絵7段、詞6段からなり、第7段は絵のみがあって詞を欠いている。かつては第6段も絵のみであったが、第6段の詞の部分が他所に保管されていたものが戦後発見され、巻物の所定の位置に貼り継がれている。このように、本巻は完本ではなく、大部の絵巻であったものの一部分が残ったものと推定される。本巻に描かれている地獄の様相は、『起世経』所説の十六小地獄に基づいている。巨大な鶏が口から火を吐く「鶏地獄」、鬼卒たちが亡者を鉄の臼で磨り潰している「鉄磑所」の画像がよく知られている。 『考古画譜』によると、明治20年頃までは東京・東大久保の大聖院にあったもので、後に横浜・三渓園の創立者として知られる原富太郎(原三渓)の所有となった。7段目については詞書を欠くため、「狐狼地獄」とも「灰河地獄」とも推定されている。ボストン美術館には本巻の断簡と推定される「一銅釜」(いちどうふ)図がある。
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