企画の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 03:07 UTC 版)
「宇宙からのメッセージ」の記事における「企画の変遷」の解説
1975年12月に日本で公開された『ジョーズ』の大ヒットを見た東映社長・岡田茂(当時)が矢島信男に「特撮ものを作りたい」と相談した。しかし矢島はその頃、何本ものテレビ映画を掛け持ちで担当しており具体的に動くことは出来なかった。この『ジョーズ』便乗企画が、東映テレビ事業部の渡邊亮徳・平山亨のもとで引き続き検討され、最初はテレビ事業部で、SF映画をアメリカとの合作で作りたいという構想であった。この企画が『DEVIL MANTA SPACE MONSTER デビル・マンタ』として概要が固まった。「マンタ」とは魚介類のオニイトマキエイを指し、内容はエイに似た巨大宇宙生物が地球を襲いパニックになるという『ジョーズ』に便乗したモンスター映画であった。石森章太郎は『デビル・マンタ』について「それは侵略ものです。だからスペース・オペラではなく、地球が舞台で」と話しており、『デビル・マンタ』は宇宙が舞台ではなかった。スタッフは、企画/平山亨、製作/渡邊亮徳、原案/石森章太郎、監督/佐藤肇、脚本/高久進・佐藤肇、企画協力・特撮監督/矢島信男という枠組みであった。『宇宙からのメッセージ』で原案としてクレジットされている野田昌宏は、「スペース・オペラをやろうということが決定したときに、日本のSFの英知を結集しようと考えて、スペース・オペラの権威である彼に一枚かんでもらおうと加わってもらった」と石森が話しており、『宇宙からのメッセージ』で原案としてクレジットされている石森章太郎・野田昌宏、深作欣二・松田寛夫の4人のうち、野田、深作、松田の3人は『デビル・マンタ』には関係していない。石森は「ぼくは実際に原稿を書くのではないけれど、アイデアを出しているわけで、脚本は第6稿までに及んだわけで、その間にみんなの意見が入っているわけです」と話している 1977年夏にアメリカで『スター・ウォーズ』が大ヒットし、翌年夏の日本公開を控えてSFブームに沸いた。日本の映画会社も、『スター・ウォーズ』が公開される前にこれにあやかろうと、東宝は1978年の正月映画として『惑星大戦争』を製作。東映も『デビル・マンタ』を却下し、「宇宙怪獣」ではなく「宇宙SF」に急遽企画を変更した。岡田茂東映社長は、映画公開中のインタビューで「『宇宙からのメッセージ』は『スター・ウォーズ』の向うを張って製作したものです」とはっきり話している。石森は『スター・ウォーズ』がアメリカで公開される以前の1977年春に「『デビル・マンタ』を止めて『仮面ライダー』を世界的な話にしたらどうか」など、別案が既に検討されていたと話している。 岡田社長は当時、年四本の一本立て興行及び、760人いた東映の東・西撮影所の人員を400人まで減らす配置転換を実施し、自社製作を減らして、その不足分を外部提携(外部活用)で補おうとし、外部提携を積極的に進める方針を打ち出していた。角川映画やオフィスアカデミーとの提携の他、テレビ局関係との提携として製作されたのが読売映画社との提携作『新・巨人の星』『BIG-1物語 王貞治』で、他にテレビ局との合作として1977年秋に企画に上がったのが『宇宙大戦争』だった。岡田は著書で『宇宙からのメッセージ』の製作にゴーサインを出したのは「渡邊クン(渡邊亮徳)が東北新社の植村伴次郎さんを巻き込んで、東映が手がけたことのないジャンルに挑戦したい」「(渡邊の)テリトリーとするテレビやマーチャンからの収入、それと海外で必ず売れます。売ります」というから、その情熱を買って、新境地開拓の意味もあって製作を決断したと書いている。1973年頃から「広大な宇宙を舞台に大チャンバラ映画をやってみたい」と夢を膨らませていた深作欣二と渡邊亮徳テレビ事業部長をヘッドとする平山亨プロデューサー等、宇宙SFプロジェクトチームがドッキングし、「やるからには世界に通用する一級のSF映画に仕上げる」と岡田社長が決断し、GOサインを出した。『宇宙からのメッセージ』の実質的な始まりはここからである。平山が親交が深かった伊上勝に今度は『惑星大要塞』の題名で脚本を依頼。一時使用された『惑星大要塞』や『宇宙大要塞』という仮タイトルは後述する1977年大晦日の日本語タイトル一般公募の中にあったもの。1977年11月の文献に『遊星からのメッセージ』と書かれたものがある。より大きな特撮ステージが必要と判断され、東映東京撮影所製作の予定が東映京都撮影所へ変更された。東映京都の大作となったことで岡田社長から「監督を深作欣二に代えろ」と指示が出て、深作は『柳生一族の陰謀』撮影中に監督オファーを受け、佐藤肇から深作に監督が交代し、深作が伊上脚本を一蹴、『柳生一族の陰謀』で組んだ松田寛夫に脚本を交代させた。またすぐ作れということで、テレビ部の平山プロデューサーだけでは手に負えないと、岡田裕介がプロデューサーとして参加。岡田は『動乱』(1980年)を準備中であったが、途中参加ながら本作が東映での初プロデュース作となる。1978年のゴールデンウィーク映画として、1977年秋に本作の制作が正式に決定した。邦題より海外用タイトル「Message from Space」が先に決まった。
※この「企画の変遷」の解説は、「宇宙からのメッセージ」の解説の一部です。
「企画の変遷」を含む「宇宙からのメッセージ」の記事については、「宇宙からのメッセージ」の概要を参照ください。
企画の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 10:12 UTC 版)
なかよし編集部の本作の担当であった近藤憲二郎によると、本作は連載当初から人気があったため、実写ドラマ化を前提に売りこんでいたのだが、結局日本テレビがアニメ化ということで実現した経緯がある(徳間書店「アニメージュ」1993年6月号、23頁)。当初の企画に関連するのか、本作のエンディングには実写のDio(沖本姉妹)の映像が入っている。
※この「企画の変遷」の解説は、「ミラクル☆ガールズ」の解説の一部です。
「企画の変遷」を含む「ミラクル☆ガールズ」の記事については、「ミラクル☆ガールズ」の概要を参照ください。
企画の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 00:32 UTC 版)
「仮面ライダー 8人ライダーVS銀河王」の記事における「企画の変遷」の解説
石森章太郎による原案では、仮面ライダーが羅門博士の開発した重力制御砲を利用しようと目論むネオショッカーの吸血鬼軍団と対決するという物語で、スカイライダーの飛行能力を活かした空中戦を見せ場としていた。完成作品にも登場する羅門博士やネオショッカーの富士山麓基地はこの段階で創作されていたが、羅門博士は仮面ライダーとネオショッカーの双方を利用していた黒幕という扱いであった。敵キャラクターにはネオショッカー幹部のドラキュラ伯爵とその配下であるプテラノドンをモチーフとしたテラノドジンが設定され、石森によるラフデザインも描かれていた。 しかし、テレビシリーズの視聴率不振により強化策として9番目の仮面ライダーとなる仮面ライダーV9の導入が検討され、本作品はその登場編として改訂された。V9はアメリカ航空宇宙局の宇宙飛行士・沖正人が変身するという設定で、空を象徴するスカイライダーよりもスケールの大きな宇宙で活躍するキャラクターと位置づけられていた。高久進により執筆された準備稿『9人ライダー対銀河大要塞』は石森の原案を基にしながらV9の設定を活かすため、宇宙からの侵略者である銀河大帝とネオショッカーが手を組むという展開に改められた。東映プロデューサーの平山亨による案では、後に宇宙怪獣であることが明かされるネオショッカー大首領の正体についても触れることが検討されていた。 その後、テレビシリーズが歴代ライダーの客演によって視聴率が持ち直してV9の登場が見送られたため、本作品もそれに合わせる形に再度改められた。内容はほとんど改訂されず、V9の登場シーンが他の仮面ライダーに変更される程度にとどまった。 筆が進むにつれて文字が難読になっていったために途中から石森プロのスタッフによって文字書きが行われたが、絵コンテは石森によって全編が執筆された。絵コンテでのタイトルは『8人ライダーVSギンガオー』であり、予告編でもこの表記となっている。 当初は単独での公開を想定していたが、興行館の都合などによって東映まんがまつりの一編として公開されることとなり、上映時間が短縮された。
※この「企画の変遷」の解説は、「仮面ライダー 8人ライダーVS銀河王」の解説の一部です。
「企画の変遷」を含む「仮面ライダー 8人ライダーVS銀河王」の記事については、「仮面ライダー 8人ライダーVS銀河王」の概要を参照ください。
- 企画の変遷のページへのリンク