成立と崩壊の経緯とは? わかりやすく解説

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成立と崩壊の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 11:56 UTC 版)

大東急」の記事における「成立と崩壊の経緯」の解説

東京急行電鉄直系前身となる会社は、デベロッパー田園都市株式会社開発した分譲地省線現在のJR)を結ぶための鉄道線として1922年大正11年)に設立され目黒蒲田電鉄目蒲電鉄)である。翌1923年大正12年)に目黒 - 蒲田間(目蒲線、後の目黒線および東急多摩川線となる)を開業したが、それと並行する形で池上電気鉄道1922年大正11年)から1928年昭和3年)にかけて蒲田 - 五反田間の路線開業させた。これにより、両者競合関係になる。付帯事業である乗合バスまで含めた競争は、目蒲代表者五島慶太池上電鉄大口出資者である東京川崎財閥口説き落として、1934年昭和9年)に漸く併呑する形で収拾池上電鉄路線自社池上線とした。この「敵を身内にしてしまう」やり方は、主に株式買い占めを図ることで行われた次いで目蒲姉妹会社である(旧)東京横浜電鉄東横電鉄現在の東横線母体)と、玉川電気鉄道玉電、後の田園都市線一部世田谷線母体)が渋谷開発巡り衝突した東横電鉄東横百貨店開業対抗し玉電二幸誘致して玉電食堂ビル建設したまた、東横乗合玉電バス路線錯綜し競合していた。玉電東横対抗すべく、路線隣接しておりかつ同じ井上篤太郎経営していた京王電気軌道結託した。このような対立関係が続く中、五島はまた東京高速鉄道建設といった案件抱えており、同社渋谷駅建設するためには、玉電協力不可欠であった。こうして、五島玉電大株主である千代田生命保険働きかけ大量同社株式取得した。これで企業乗っ取り成功し1936年昭和11年玉電東横電鉄合併された。また、これで東横電鉄京王関係会社同士になったが、五島井上依然として敵対関係であり、手を携えるどころか逆に主として乗合バス事業の面で大い対立していた。 上記でも触れた東京高速鉄道(後に帝都高速度交通営団経て現在の東京地下鉄)は、渋谷 - 新橋 - 東京間の地下鉄建設を行う会社として、大倉財閥背景設立された会社で、東横電鉄経営実績のあった五島常務事実上代表者)に迎えられた。五島は、東京高速鉄道新橋以東路線をすでに浅草 - 神田 - 新橋間で開業していた東京地下鉄道結んだ方が良い判断し先方交渉に及び直通することで合意したが、東京地下鉄道側は京浜電気鉄道結んで京浜地下鉄道設立し新橋から品川方面への延伸計画発表した約束反故にされた形の五島は、直ち東京地下鉄道提携先である京浜電気鉄道株式買い占めにかかり、まず同社大株主であった前山久吉内国貯金銀行頭取で、後に衆議院議員となった森美秀義父)から株式譲り受け次いで同社実力者である望月軍四郎説得当たった。これには前山鬼怒川水力電気利光鶴松荷担し、三者による再三にわたる説得漸く望月応じることになり、1939年昭和14年4月東京高速鉄道京浜電気鉄道ならびに姉妹会社である湘南電気鉄道東京地下鉄道傘下収めることになった。 なお、東横電鉄京浜電鉄川崎乗合自動車経営巡って争ったことがあり、また大森地区江ノ島地区乗合バス事業競合していた。また、目黒蒲田電鉄は(旧)東京横浜電鉄合併して名称を逆に(新)東京横浜電鉄改称し京浜電気鉄道もまた湘南電気鉄道湘南半島自動車合併統制経済に伴う企業集約化進んだ東横電鉄略して東横呼び一時子会社社名東急ではなく東横使われたこともある)。これら一連の企業買収企業乗っ取り五島その手腕の強烈さから、苗字をもじって強盗慶太との異名をとった。鬼怒川水力電気利光鶴松上記通り五島良き理解者であったが、自らが手掛けた山東半島金鉱開発事業経営上大きな負担となり、また主業であった電力事業国家買収されたため、以降採算乏し小田急電鉄だけとなってしまった。利光同社先行き不透明であるが、高齢もあって自らの手での再建難しいと考えたこのため引退決意し事業一切五島引き継ぐこととした。 こうして1941年昭和16年9月五島小田急社長に迎えられ同社再建を担うことになった東横京浜小田急の3電鉄は全く異な沿革持ちながら、同一人物経営することとなったため、経営合理化陸上交通事業調整法趣旨則って合併することとなった1942年昭和17年5月1日三社合併成立して大東急」が誕生した。このとき、東横一株主から「小田急如き業績の悪い会社1対1比率合併するのは企業価値損ねる。」と反対されている。 陸上交通事業調整法指定では、中央線以南が一ブロックとなっていたが、この地区では東急のほかには京王存続していた。両社関係会社であったが、既述通り実態反目し合う仲であった京王大株主大日本電力穴水熊雄であったが、穴水以前東京地下鉄道五島譲渡したこともあり、今回五島京王譲渡することに異存はなかった。しかしながら穴水事実上実力者である井上篤太郎意向無視できず、結局五島井上説得かかったこれまで井上は「我が城(京王)は小さくともダイヤモンドだ。東京急行規模はでかいかも知れない瓦礫の山だ。」と言って合併話に取り合わなかったものの、戦時統制の波に京王抗しきることはできず井上合併了承1944年昭和19年5月31日遂に京王電気軌道東急合併した中央線以南ブロックでは、このほかに南武鉄道鶴見臨港鉄道などの浅野財閥系の電鉄会社があった。これらの会社東急関係会社ではあったが、京王同様実態競合関係にあった五島南武役員はなっていたが、協力関係はほとんどなかった。浅野電鉄会社各社戦時買収省線組み入れられたため、大東急に加わることはなかった(ただし、この買収仕掛けたのは東條英機請われ運輸通信大臣就任していた五島である)。 五島公職追放やそれに伴う終戦後の処理が後手に回る等、大東急経営が行詰っていた。東急本社では、戦災復旧郊外への人口移動による輸送力増強などの喫緊の課題山積し資金調達問題絡み買収合併により編入した各線が東急本社重荷になっていた。ここで東急社内労働組合でも、事業規模適正化して戦後復興早めるべきとの声があがり、東急本社大東急分割再編成決定する至った1948年昭和23年)に大東急から京急小田急京王の3社が分離することとなった。 なお、経営民主化目的として一部傘下企業については、大東急解体前後に東急持株当該企業役職員買い取って大東急傘下から独立したこの中にはのちに再び東急グループ復する会社(のちの日本貨物急送となる厚木通運など)や、一応独立するがしばらく東急衛星企業推移した会社静岡鉄道関東バス神奈川都市交通 など)、独立小田急傘下入った会社江ノ島電鉄神中興業)、完全独立果たした会社相模鉄道東部ネットワーク王子運送 など)などがある。日本交通のようにその後名目上東急グループ長期間籍を置きながら、この時期事実上独立果たしていた会社もある。

※この「成立と崩壊の経緯」の解説は、「大東急」の解説の一部です。
「成立と崩壊の経緯」を含む「大東急」の記事については、「大東急」の概要を参照ください。

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