成立と廃止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:27 UTC 版)
軍団の成立以前には、民政も担当する評(郡の前身)が兵士の徴発、編成をつかさどっており、評督など評の役人が軍を率いていたと考えられている。歴史学者が想定するこの評制軍と比べたときの軍団の特徴は、民政担当の組織と軍事担当の組織を分離したことである。それゆえ、軍毅は軍団と同時に生まれたが、戸籍にもとづき国家が民衆から徴兵する制度、すなわち兵士制(軍団兵士制)の成立よりは下る。軍団の成立を直接記した史料はないが、学説には、持統天皇3年(689年)施行の飛鳥浄御原令によるという説と、大宝元年(701年)の大宝令によるという説がある。 軍団は8世紀、9世紀を通じて縮小の傾向があり、軍毅も軍団とともに減員・廃止となった。曲折を経て延暦11年(792年)に陸奥、出羽、佐渡と大宰府管内諸国(つまり九州)を除いて廃止になった。天長3年(826年)11月3日に大宰府管内の兵士も全廃になった。陸奥・出羽・佐渡の軍団の正式な廃止は知られないが、長元7年(1034年)12月15日にはまだ陸奥国に軍団が存在していた。
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