成立と崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 01:50 UTC 版)
「中央アメリカ連邦共和国」の記事における「成立と崩壊」の解説
1808年にフランス帝国のナポレオン・ボナパルトがスペインに侵攻し、ナポレオンはボルボン朝のフェルナンド7世を退けて兄のジョゼフ・ボナパルトをスペイン王ホセ1世とした。これに反対する民衆暴動が契機となってスペイン独立戦争が勃発。イスパノアメリカのインディアス植民地は偽王への忠誠を拒否し、フェルナンド7世への忠誠を唱えてクリオージョによるペニンスラールから権力の奪取を図り、各地で自治運動が繰り広げられた。中央アメリカでもこのような自治への動きは存在したが、結局広範な運動にはならず、独立運動にも繋がらなかった。 1820年にスペイン本国でリエゴ革命が起こり、自由主義憲法が復活すると、かつてミゲル・イダルゴやホセ・マリア・モレーロスの反乱を鎮圧したメヒコ市の王党派や保守派のクリオージョが反自由主義憲法を唱えて独立の動きが進み、1821年にアグスティン・デ・イトゥルビデを首班として独立を達成した。これを受けて中央アメリカでも保守派のクリオージョによって独立運動が進み、同年グアテマラ総監のガビノ・ガインサ(スペイン語版、英語版)が独立を宣言した。 1822年にイトゥルビデはこうして独立した中央アメリカをメキシコに併合し、皇帝に即位してメキシコ帝国の成立を宣言した。しかし、1823年にイトゥルビデが失脚すると、中央アメリカのチアパスを除いた旧グアテマラ総監領だった地域は改めて独立を宣言し、中央アメリカ諸州連合が成立した。1824年1月には憲法が制定され、5州からなる中央アメリカ連邦共和国に改組された。 1825年にエルサルバドルの自由主義者マヌエル・ホセ・アルセ(スペイン語版、英語版)が初代大統領に選出されたが、このために保守主義のグアテマラと自由主義のエルサルバドル、ホンジュラスとの対立が強まり、内戦が勃発した。内戦は1829年に自由主義派の勝利で終結したため、1830年にホンジュラス出身の自由主義者、フランシスコ・モラサンが大統領に就任した。 モラサンはグアテマラ大司教の追放や教会財産の没収など自由主義的な政策を行い、1834年に首都も保守主義派の牙城だったグアテマラ市から自由主義派の牙城だったサンサルバドルに遷都するが、1837年にグアテマラで発生したコレラが流行すると、保守主義者はコレラが自由主義者による陰謀だという噂を流し、これに共鳴したインディオやメスティーソを動員したグアテマラ出身の保守派のメスティーソのカウディージョ、ホセ・ラファエル・カレーラが自由主義政府に対して反乱を起こした。 この内戦によって連邦の崩壊が始まった。1838年11月5日にホンジュラスが連邦から分離したことで崩壊が決定的になった。1839年2月にモラサンが大統領を辞任すると、後継大統領は選出されず、残った構成国5つのうち4つが1840年までに独立を宣言した。中央アメリカ連邦共和国の公式の終焉は、1841年2月にエルサルバドルが独立を宣言したときである。
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