戦時統合へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:38 UTC 版)
戦時体制に入ると、陸上交通事業調整法の公布により、バス事業者は極力統合する方向となった。1942年に東京横浜電鉄は京浜電気鉄道と小田急電鉄を統合して東京急行電鉄(東急)となっていたが、東急は1943年に藤沢自動車の経営権を京王電気軌道から譲受して傘下に収めた上で、伊勢原自動車を買収した。一方、1942年には陸運統制令に基づく鉄道省通牒により強制統合が進められる事となったが、この時に神奈川県では横浜市・相模・地区外という3ブロックに分けられることとなった。この時、町田地区は東京の調整区域から外されて相模ブロックに編入されることになった。相模ブロックの統合主体は東海道乗合自動車が選定され、1944年6月16日に藤沢自動車と伊勢原自動車を合併、神奈川中央乗合自動車が成立した。 「大東急#成立と崩壊の経緯」も参照 なお、江ノ島電気鉄道のバス路線については、既に一部の路線が東海道乗合自動車に譲渡されており、残った路線も1944年までには全ての路線が運休となっていたことから、事実上のバス事業廃止となった。この時点では相模鉄道のバス部門はそのままであったが、既に相模鉄道自身も東急の傘下にあった上、鉄道線が国鉄に買収され、神中線も東急に経営委託(事実上の統合)していたため、鉄道業における実体がなくなっていた。同社バス部門は1944年11月28日に神奈川中央乗合自動車に譲渡された。この時点で相模ブロックの統合が完了したのである。 「相模鉄道#相模鉄道による神中鉄道の吸収合併」も参照 この時期までに統合されたバス事業の概要は以下の通りである。 伊勢原自動車 1920年3月に伊勢原自働車運輸として設立。1928年2月サンエキ自動車(1926年設立)と合併し、伊勢原サンエキ自動車と改称。1932年9月伊勢原自動車と商号を変更。周辺事業者を悉く統合。1938年3月には秦野自動車より平塚 - 二宮間と平塚 - 須賀間を譲受していた。 藤沢自動車 1931年に江之島自動車・片瀬自動車商会・鵠沼自動車が統合して設立。以来、県央地区(高座郡・愛甲郡・津久井郡)の事業者を悉く買収・併合して統合。1937年6月、京王電気軌道(現在の京王線の母体)に買収され、同社傘下となる。1940年9月、八王子中央自動車(1925年11月開業。川尻村(現・相模原市緑区)久保沢向原 - 八王子市旭町間)の合併で、南は藤沢 - 平塚から厚木・相模原を経て北は八王子 - 上野原までに至る神奈川県を縦断する路線網を築き上げた。 相模鉄道 1935年12月24日、大谷仁三郎経営の淵野辺 - 上溝 - 田名間と田名 - 橋本間の乗合自動車業を承継して開業。1936年6月9日、愛甲自動車商会より上溝 - 厚木間の路線を譲受。1941年6月30日、東京横浜電鉄の傘下に入り、1943年4月1日、神中鉄道(現在の相鉄本線の母体)を吸収合併するが、1944年6月1日、本来の鉄道路線である茅ケ崎 - 橋本間が国家買収される(現在のJR相模線)。従って同社は現在の相鉄と同一企業であるが、この時神奈中に編入されたバス路線と現在の相鉄バス(1950年6月20日、横浜市内で改めて開業)は全くの無関係である。詳細は「相模鉄道#相模鉄道と神中鉄道」を参照 1945年には空襲に備え、本社事務所を伊勢原に疎開移転した。
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