戦時統合で発足
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 06:59 UTC 版)
第二次世界大戦がはじまると、戦時統制の一環として小規模企業を整理・統合する戦時企業統合が始まり、内閣情報局の指示によってこれがさまざまな分野で進められていった。映画業界でも1942年(昭和17年)、新興キネマ・大都映画・日活製作部門を軸とした合併が行われ、永田雅一(専務)、河合龍齋(専務)、真鍋八千代(監査役)、波多野敬三(常務)、六車脩(常務)、薦野直実(常務)、吉岡重三郎、鶴田孫兵衛、林弘高(東京吉本)の9名が発起人となり、1942年1月27日に大日本映画製作株式会社(大映)が誕生、松竹、東宝との3社体制が成立した。 情報局の当初案では、映画業界を松竹と東宝の2社体制に再編することになっていたが、これを知った新興キネマ京都撮影所所長の永田雅一が、政府寄りの第三勢力として「統制会社」の可能性をアピールする形で同局に掛け合い、最終案ではこれにもう1社加えた3社体制とすることを認めさせた。 新興キネマは松竹系列であり、事実上松竹の子会社であったが、同社が主導して企業統合がされたことは世間を驚かせ、「新興キネマから情報局第五部にカネが動いたのではないか」という噂が広まった。真相は不明だが、大映の社史も本件を包み隠さず事実を掲載している。 この年に阪東妻三郎・片岡千恵蔵・嵐寛寿郎・市川右太衛門の四大スターの共演を掲げた第一回作品『維新の曲』(監督・牛原虚彦)を発表し、映画製作の第一歩を歩み出す。 映画業界が3社体制となり、6つの撮影所が大映の傘下となった。 日活太秦撮影所(大映京都撮影所) 日活多摩川撮影所(大映東京第二撮影所、のちの大映東京撮影所、現在の角川大映撮影所) 新興キネマ京都太秦撮影所(大映第二撮影所、戦後の東横映画撮影所、現在の東映京都撮影所) 新興キネマ京都太秦第二撮影所(大映嵯峨野撮影所、すぐに閉鎖) 新興キネマ大泉撮影所(大映東京第一撮影所、すぐに閉鎖、戦後の太泉スタジオ、現在の東映東京撮影所) 大都映画撮影所(かつての天然色活動写真巣鴨撮影所、すぐに閉鎖) 国内の映画の配給系統が「紅系」と「白系」の2系統と統合することで、松竹と東宝と配給枠を分け合う形になった大映は製作本数の減少を余儀なくされ、京都の大映京都・大映第二、東京の大映東京第二を残して、嵯峨野・大映東京第一・大都の各撮影所を閉鎖し、3か所のスタッフと俳優は、大映京都・大映第二・大映東京第二が引き継いだ。 1943年(昭和18年)、初代社長に作家の菊池寛を担ぎ出す。当初の社名表記は、大映マークにかぶさるように旧社名が縦表記でズームしながらクレジットされた。 1945年(昭和20年)、社名を大映株式会社に改める。 1946年(昭和21年)、専務の永田雅一が副社長に昇格する。 1947年(昭和22年)、副社長の永田雅一が社長に昇格する。独占禁止法の趣旨に基づき、日活との関係を解消するが、「統制会社」が戦後軒なみ解散を命じられる中、大映は存続が許された稀有な事例である。 社名変更後の表記は、星空の後に動く雲をバックに大映マークが映り、それにかぶさるように「作製社會式株映大」の文字がズームし、停止して落下する演出で1950年(昭和25年)頃まで使用された。 予告編などは「映画は大映」の☆マークが付いたキャッチフレーズが多用された。
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