戦時統制: 1941年-1945年
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「アメリカ合衆国の経済史」の記事における「戦時統制: 1941年-1945年」の解説
1939年9月1日、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻を開始したことにより、第二次世界大戦の火蓋が切られた。この年アメリカは欧州で始まった戦争よりニューヨークの万国博覧会で浮かれていた。GMのつくった未来都市館は来場客の関心を集め、この時アメリカ人はいまだ中立政策と孤立主義を志向していた。ルーズベルトは中国大陸と大西洋で対枢軸国むけの武器支援を続けていたが、1941年12月7日(日本時間12月8日)日本が真珠湾を攻撃したことにより日本と、ついで12月11日に宣戦布告を受けることで公式にドイツと開戦となった。戦時中、軍需生産委員会は国全体の生産能力を軍需優先となるように調整した。大衆消費財工場から転換されたところが多くの軍需品の注文を受けた。例えば自動車製造会社はタンクや飛行機を作り、アメリカ合衆国を「民主主義の武器庫」にした。国民所得の上昇を抑え、乏しい消費財がインフレを起こさせないように、新しく創設された価格管理局が住居の賃貸料を統制し、砂糖からガソリンまでの消費財を配給し、他にも価格上昇を抑えるように努めた。 連邦準備制度が戦時国債を買い支えていたが、終戦時保有残高は国民総生産の10.6%にのぼった。 戦中経済を平和時のものと比較して善悪を論じることはできない。条件が多くの点で異なるからである。例えば巨額支出、価格統制、債券販売、原材料統制、新築と新車の禁止、配給制度、コストプラス利益保証、奨励金付きの賃金および1200万人の徴兵が挙げられるものの、結果として第二次世界大戦は、恐慌の苦しみからアメリカを解放した。軍需品の生産拡大とそれに伴う財政出動の結果、終戦時の1945年の実質GDPは開戦時の1939年と比べて約88%増大し、失業率は急速に低下し、1943~1945年の平均で労働力の2%以下にまでなり、1945年には1.2%にまで低下した。 600万人の女性が加工生産分野で職を得た。その大半は軍需品を生産するために急遽作られた仕事だった。軍隊でも男性に取って代わる女性がいた。これら働く女性達は『リベット工ロージー』(リベットこうロージー)のような小説の登場人物で象徴された。戦後男性が軍隊任務から戻ってくると多くの女性は家事仕事に戻った。国民は郊外に目を向け、新居に対する抑えられた欲求が遂に解き放たれた。総力戦という点では日本とさほど変わらなかった。 1939年から連邦住宅局はリフォーム貸付に対する保険についても債務者から保険料を徴収するようになっていた。1943年、連邦住宅局はリフォーム貸付1.3億ドルのうち98%を保険した。1944年復員軍人再調整法(Servicemen's Readjustment Act of 1944、通称GI法)に基づいて復員軍人局(Veterans Administration)が設立された。ここが引揚者向けモーゲージ貸付を無料で、すなわち公費で保証した。貸付そのものも条件が緩くなってきた。1920年代から貯蓄貸付組合は定期償還方式を採用していた。これは返済周期を細切れにして毎期の利払い義務額を小さくし、元本返済を促す方法である。戦時に漸く生保と商業銀行が同様の方法を採るようになった。それは連邦住宅局や軍人局の付保がつかないモーゲージでも同様であった。
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