製鉄業界へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:25 UTC 版)
東大卒業後、永野は母と同郷の広島市堺町(現西区)出身の二宮新が支配人を務めていた貿易会社浅野物産に入社するが、気乗りせず10ヶ月で退社した。翌1925年(大正14年)、渋澤正雄の依頼を請け、倒産会社、富士製鋼の支配人兼工場長となり、再建を果たす。これが機縁で以降の生涯を製鉄業に捧げることとなった。 1930年(昭和5年)からの世界恐慌では、富士製鋼も倒産寸前に陥り、1931年(昭和6年)には銀行から借金返済の催促を受け、年末に夜逃げするなど苦闘した。1932年(昭和7年)には、銑鉄が売れなくて困っていた満州の昭和製鋼所から、大連港に据える荷物用のクレーンの納入を請け負った。機械が売れなくて困っていた石川島飛行機社長・渋澤正雄に頼んで、クレーンを一緒に作って先方に納め、代わりに昭和製鋼所の在庫の銑鉄を富士製鋼がバーターでもらうという契約を結んだ。銑鉄を非常に安く仕入れたが、その後相場が急騰し大きな利益が出て、その金で安田銀行からの借金を一掃して工場の担保も抜くことができた。後年の大合同の際には、担保が無かったため身軽に参加できたという。 1933年(昭和8年)昭和鋼管(森コンツェルンの昭和肥料(昭和電工)の合弁会社)の総務部長を兼ねていた関係で、森コンツェルンの創設者である森矗昶から引き抜きを受けたが断った。森から「そのかわり曉(森の長男)まだ若いので、一生涯、横から面倒をみてやってくれ」といわれ、日本冶金工業の取締役を務めた。 1934年(昭和9年)、製鉄大合同で富士製鋼が日本製鐵(日鐵)に統合されて日鐵富士製鋼所となると、永野は所長に就任。翌1935年(昭和10年)八幡製鐵所所長・渡辺義介の勧めにより八幡製鐵所に転出し、日鐵の中枢を歩む。永野は、三鬼隆とともに増産を企図し、日鐵の配炭のすべてを八幡に集中して銑鉄・鋼の傾斜生産を行い、銑鋼一貫の八幡の本格的な生産復興を目指した。これは戦後に日本政府が経済復興推進策として打ち出した傾斜生産方式の先例とされる。 戦争拡大に伴う日本経済の戦時統制体制の進展により、1941年(昭和16年)鉄鋼統制会に理事(原料担当)として出向。北海道支部長として終戦を迎える。1945年(昭和20年)8月15日、玉音放送は銭函の取り引き先で聞いた。
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