製鉄所の設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 04:04 UTC 版)
これを受けて本格的に経営に乗り出した田中長兵衛によって設立されたのが釜石鉱山田中製鉄所である。1887年(明治20年)7月のことで、初代所長には横山久太郎が任命された。 同年、政府より釜石の土地や建物、機械類などすべての払い下げを受け、大橋に分工場を建設する。1890年(明治23年)の銑鉄年間生産高は4000トンで、日本国内で年2万t生産されたうちの約20%に過ぎず、残りの80%は中国地方で古来より盛んなたたらの砂鉄精錬が占めていたが、鉄に対する時代の需要に応えて釜石はその生産量を伸ばしていく。1893年(明治26年)には廃止されていた釜石鉱山鉄道を馬車鉄道として再開させた。 1890年(明治23年)には大阪砲兵工廠において当時世界的に評価の高かったイタリアのグレゴリーニ製銑鉄よりも釜石製銑鉄の方が弾丸用としてより優れていることが立証された。製鋼原料としての釜石銑もまたクルップ社製、H・レミー社製の物に匹敵し、その上クルップに対して3割、レミーに対しては6割安価に作成できることも判明している。 1894年(明治27年)には顧問に冶金学者の野呂景義(1854-1923)、主任技師にその弟子香村小録(1866-1939)を迎え、野呂が提唱したコークス利用の製銑法に挑戦。改修・大型化した官営時代の英国製30トン高炉で、日本初のコークス銑の産出にも成功した。 この年釜石の銑鉄生産高は、砂鉄銑の生産高を超えて国内で生産される銑鉄のおよそ7割を占めている。翌1895年(明治28年)に上記2名による鉱石埋蔵量の調査を行ったところ、前回1892年調査時の1400万トンを遥かに上回る推定4900万トンという調査結果が報告された。 銑鉄を生産すれば必ず輸送手段が必要となってくる。1886年の鈴子・大橋間の荷馬車輸送開始を皮切りに、1891年には滝の洞 - 大橋間で二輪車輸送、1893年には新山・滝の洞間で馬車鉄道が開通、1894年には元山・滝の洞間にインクライン架設、1895年には元山・大橋間の連絡実施に伴って馬車鉄道を廃止した。1897年には佐比内 - 元山間のトンネルが貫通して同線の軌道が開通し、この年以後鉄道は次第に複線化されていく。
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