官営時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 15:52 UTC 版)
富岡製糸場は、明治5年10月4日(1872年11月4日)に官営模範工場の一つとして操業を開始した。ただし、当初は工女不足から210人あまりの工女たちで全体の半分の繰糸器を使って操業するにとどまった。翌年1月の時点で入場していた工女は404人で、主に旧士族などの娘が集められていた。同年4月に就業していた工女は556人となり、4月入場者には『富岡日記』で知られる和田英(横田英)も含まれていた。 富岡製糸場の繰糸場(上・明治時代、下・操業停止後) 製糸場の中心をなす繰糸所は繰糸器300釜を擁した巨大建造物であり、フランスやイタリアの製糸工場ですら繰糸器は150釜程度までが一般的とされていた時代にあって、世界最大級の規模を持っていた。また、特徴的なのは揚返器156窓も備えていたことである。揚返(あげかえし)は再繰ともいい、小枠に一度巻き取った生糸を大枠に巻き直す工程で、湿度の高い日本の気候の場合、一度巻き取っただけではセリシン(生糸を繭として固めていた成分)の作用で再膠着する恐れがあり、それを防ぐために欠かせなかった。これに対し、ヨーロッパの場合はこの工程を省く直繰(ちょくそう)式が一般的で、前出の前橋製糸所が導入した器械も直繰式であった。前出の通り、ブリューナは富岡製糸場のための器械を特注していたが、その一つはこの日本の気候に合わせて再繰式を導入する点にあった。なお、特別注文したほかの点には、日本人女性の体格に合わせて高さの調整をしたことなどが挙げられる。 工女たちの労働環境は充実していた。当時としては先進的な七曜制の導入と日曜休み、年末年始と夏期の10日ずつの休暇、1日8時間程度の労働で、食費・寮費・医療費などは製糸場持ち、制服も貸与された。群馬県では県令楫取素彦が教育に熱心だったこともあり、1877年(明治10年)には変則的な小学校である工女余暇学校の制度が始まり、以前から工女の余暇を利用した教育機会が設けられていた富岡製糸場でも、1878年(明治11年)までには工女余暇学校が設置された。しかし、官営としてさまざまな規律が存在していたことや、作業場内の騒音など、若い工女たちにとってはストレスとなる要因も少なくなかった。そのため、満期(1年から3年)を迎えずに退職する者も多く、その入れ替わりの頻繁さから不熟練工を多く抱え、赤字経営を生む一因となった。また、様々な身分の若い女性が同じ場所で生活していたことから、上流出身の女性の身なりに合わせたがる工女も少なくなく、出入りしていた呉服商・小間物商から月賦払いで服飾品を購入して借金を重ねる事例もしばしば見られた。 工女たちは熟練度によって等級に分けられていた。開業当初は一等から三等および等外からなっていたが、1873年には等外上等および一等から七等の8階級に変わった。工女たちはブリューナがフランスから連れてきたフランス人教婦たちから製糸技術を学び、1873年5月には尾高勇ら一等工女の手になる生糸がウィーン万国博覧会で「二等進歩賞牌」を受賞した。これは品質面の評価よりも、近代化されたことに対する評価だったという指摘もあるが、開業間もない富岡製糸場の評価を高めたことに変わりはなく、リヨンやミラノの絹織物に富岡製の生糸が使われることにつながったとされる。工女たちは、後に日本全国に建設された製糸工場に繰糸の方法を伝授する役割も果たした。和田英や春日蝶が1874年7月に帰郷したのも、そうした工場の一つである民営の西条製糸場(のちの六工社)で指導に当たるためであった。なお、初期には人数は少なかったが、蒸気機関の扱いなどを学ぶための工男たちも受け入れており、西条製糸場の設立にも、そうした工男が貢献している。 初期の富岡製糸場は初代所長(場長)尾高惇忠、首長ポール・ブリューナを中心に運営されたが、前述の不熟練工の問題やブリューナ以下フランス人教婦、検査人などのお雇い外国人たちに支払う高額の俸給、さらに官営ならではの非効率さなどの理由から大幅な赤字が続いていた。 契約満了につきブリューナとフランス人医師が去った1875年(明治8年)12月31日をもって、富岡製糸場のお雇い外国人は一人もいなくなった。日本人のみの経営となった最初の年度、明治9年度には大幅な黒字に転じた。この理由としては、お雇い外国人への支出がなくなったことのほか、所長の尾高の大胆な繭の思惑買いなどが奏功したことが挙げられる。しかし、尾高の思惑買いは、彼が当時政府が認めていなかった秋蚕の導入に積極的だったことなどと併せ、政府との対立を生む原因になり、尾高は富岡製糸場が富岡製糸所と改称された翌月に当たる1876年(明治9年)11月に所長を退いた。 翌年度には、従来、エシュト・リリアンタール社を経てリヨンに輸出されていた生糸が、三井物産によってリヨンへ直輸出されるようにもなり、日本人による直輸出が始まった。 内務省の官吏だった速水堅曹はかねてから民営化も含めた抜本改革を提言していたが、西南戦争(1877年)の勃発によって一時的に棚上げされた。しかし、1878年(明治11年)にパリ万国博覧会に赴いていた松方正義(当時は勧農局長)が富岡の生糸の質の低下を指摘されたことから、速水が富岡製糸所の改革を任されることになる。速水は、尾高の後任だった山田令行が改革を阻害しているとして更迭を進言し、これを実現させた。松方は後任として速水を第3代所長に任命したが、民営化を主張する速水は1880年(明治13年)11月5日の「官営工場払下概則」制定と前後して、富岡製糸所の生糸の直輸出を一手に担う横浜同伸会社設立に関わり所長を辞任、かわって同伸会社の社長に就任した。この時点では、民間人となった速水が富岡製糸所を5年間借り受けるという話が、松方との間で事実上内定していたが、群馬県令の反対などもあって、政府は最終的にこれを認めなかった。他方で、ほかに払い下げを希望する民間人は現れなかった。富岡製糸所の巨大さが、当時の民間資本では手に余る存在だったからと言われている。「官営工場払下概則」が結果的に払い下げを促進することにはならずに1884年に廃止されると、官営工場の払い下げは急速に進んだが、富岡製糸場は払い下げの見通しが立たないまま、官営の時期がなおも続いた。 第4代所長の岡野朝治の時期は、度々の糸価下落などの影響を受け、経営的に厳しい時期にあたっていた。そうした状況を受け、1885年(明治18年)には速水が第5代所長として復帰した。速水は同伸会社社長時代に、一手に輸出を引き受けていた富岡製糸所の生糸を、リヨン以外にニューヨークにも輸出するようになっていた。彼は製糸所所長として改革を進める一方で、アメリカ向けの輸出も増やし、米仏の両国で富岡の生糸の評価を高めた。他方で速水は民営化を引き続いて主張していたが、それは1890年代になってようやく実現することになる。
※この「官営時代」の解説は、「富岡製糸場」の解説の一部です。
「官営時代」を含む「富岡製糸場」の記事については、「富岡製糸場」の概要を参照ください。
- 官営時代のページへのリンク