官営鉄道建設の決断
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 15:22 UTC 版)
明治時代に入り、政府は官営による鉄道建設を決定し、新橋 - 横浜間の鉄道建設が始まった。 京都で王政復古の大号令が布告された半月後の1868年1月17日(慶応3年12月23日)、幕府の老中外国事務総裁小笠原長行の名でアメリカ領事館書記官のアントン・ポートマン宛に江戸 - 横浜間の鉄道設営免許が与えられた。この免許はアメリカ側に経営権がある「外国管轄方式」といえるものであった。明治になってからアメリカ側はこの免許を根拠に建設要請を行ったが、明治政府は「この書面の幕府側の署名は、京都の新政府発足後のもので外交的権限を有しないもの」である旨をもって却下している。その後新政府内部で鉄道建設について検討が行われ、1869年(明治2年)11月に自国管轄方式によって新橋・横浜間の鉄道建設を決めた。当時の日本では自力での建設は無理なので、技術や資金を援助する国としてイギリスを選定した。これは鉄道発祥国イギリスの技術力を評価したことと、日本の鉄道について建設的な提言を行っていた駐日公使ハリー・パークスの存在も大きかった。翌1870年(明治3年)イギリスからエドモンド・モレルが建築師長に着任して本格的工事が始まった。日本側では1871年(明治4年)に井上勝(日本の鉄道の父)が鉱山頭兼鉄道頭に就任して建設に携わった。 日本の鉄道は1872年10月14日(明治5年9月12日)に、新橋駅 - 横浜駅間で正式開業した。ただし、実際にはその数か月前の1872年6月12日(明治5年5月7日)から品川駅 - 横浜駅間で仮営業が行われていた。鉄道は大評判となり、開業翌年には大幅な利益を計上したが、運賃収入の大半は旅客収入であった。もっともこの路線自体はトンネルが一か所も無いうえに橋梁は木構造と「試供品」のようなものであり、本格的な鉄道路線の建設は大阪‐神戸間および大阪‐京都間に持ち越されることになった。
※この「官営鉄道建設の決断」の解説は、「日本の鉄道史」の解説の一部です。
「官営鉄道建設の決断」を含む「日本の鉄道史」の記事については、「日本の鉄道史」の概要を参照ください。
- 官営鉄道建設の決断のページへのリンク