官営製鐵所時代とは? わかりやすく解説

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官営製鐵所時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/01 01:29 UTC 版)

日本製鉄八幡製鉄所」の記事における「官営製鐵所時代」の解説

明治政府殖産興業スローガンの元、日清戦争勝利した日本は、1895年明治28年)に製鉄事業調査会設置し、翌1896年明治29年3月30日製鉄所官制発布した。そして1897年明治30年)に着工1901年明治34年2月5日東田第一高炉火入れが行われる。この操業当たって先に国内初の成功収めていた釜石鉱山田中製鉄所から選抜派遣された7人の高炉作業者が派遣されている。同年11月18日には東京から多数来賓迎えて作業開始式が祝われた。建設費は、日清戦争得た賠償金賄われている。八幡村(現北九州市八幡東区)が選ばれたのは、軍事防衛上や原材料入手利便性などが挙げられており、特に筑豊炭田から鉄道水運石炭大量迅速に調達できるメリット大きかった当時は、単に製鐵所呼んでいた。 当時日本には近代的な製鉄事業必要な知識経験がないため、最新技術採用するという方針欧米事情調査されその結果ドイツオーバーハウゼン市にあるグーテホフヌンクスヒュッテ (GHH) に設計依頼された。操業も、高い給料多数ドイツ人技師雇用した上で開始されている。しかし、当初コークス炉がなく、使用した鉄鉱石性質欧州とは異なるため、銑鉄生産予定半分程度とどまり計画した操業成績をあげることができなかった。それに伴い赤字膨れ上がり遂に1902年明治35年7月操業停止する事態となった。そこで、政府調査委員会設置し、その検討をもとに、コークス炉を建設し原料精選する方針立てられた。 その後1904年明治37年2月日露戦争勃発し需要急激に増えた政府は、コークス炉の完成受けて製鐵所の操業再開決め4月6日第2次火入れが行われたが、わずか17日間で操業停止追い込まれた。そこで釜石鉱山田中製鉄所顧問である東京帝国大学工学部元教授野呂景義原因調査依頼された。炉内をより高温に保つため、高炉形状改め操業方法改善するという野呂提案を受け、高炉改造され7月23日第3次火入れが行われた。この改良成功しその後順調に操業進めて多く銑鉄を得ることができた。そして、翌年2月25日には、以前から建設進められていた東田第二高炉火入れが行われ、銑鉄生産量がほぼ2倍になった戦争が終わると今度民間から需要増え技術革新重工業発展に伴う需要増加応えるため、第一期拡張工事1906年 - 1910年)、第二期拡張工事1911年 - 1915年)、そして第一次世界大戦大幅に増えた鉄鋼需要応え第三期拡張工事1917年)、1927年昭和2年)には年間銑鉄生産量100万トン計画立案され、海に築く製鉄所先駆けとなった洞岡高炉群の建設決定1938年昭和18年完成)と、次々と拡張していき、国内大半需要八幡製鐵所賄うようになった当初農商務省管轄だったが、農商務省分割によって1925年大正14年)に商工省管轄となり、それは1934年昭和9年)の日本製鐵発足まで続いた

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官営製鐵所時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 13:46 UTC 版)

日本製鉄九州製鉄所」の記事における「官営製鐵所時代」の解説

詳細は「官営八幡製鐵所#沿革」を参照 明治政府殖産興業スローガンの元、日清戦争勝利した日本は、1895年明治28年)に製鉄事業調査会設置し、翌1896年明治29年3月30日製鉄所官制発布した。そして1897年明治30年)に着工1901年明治34年2月5日東田第一高炉火入れが行われる。この操業当たって先に国内初の成功収めていた釜石鉱山田中製鉄所から選抜派遣された7人の高炉作業者が派遣されている。同年11月18日には東京から多数来賓迎えて作業開始式が祝われた。建設費は、日清戦争得た賠償金賄われている。八幡村(現・北九州市八幡東区)が選ばれたのは、軍事防衛上や原材料入手利便性などが挙げられており、特に筑豊炭田から鉄道水運石炭大量迅速に調達できるメリット大きかった当時は、単に製鐵所呼んでいた。 当時日本には近代的な製鉄事業必要な知識経験がないため、最新技術採用するという方針欧米事情調査されその結果ドイツオーバーハウゼン市にあるグーテホフヌンクスヒュッテ (GHH) に設計依頼された。操業も、高い給料多数ドイツ人技師雇用した上で開始されている。しかし、当初コークス炉がなく、使用した鉄鉱石性質欧州とは異なるため、銑鉄生産予定半分程度とどまり計画した操業成績をあげることができなかった。それに伴い赤字膨れ上がり遂に1902年明治35年7月操業停止する事態となった。そこで、政府調査委員会設置し、その検討をもとに、コークス炉を建設し原料精選する方針立てられた。 その後1904年明治37年2月日露戦争勃発し需要急激に増えた政府は、コークス炉の完成受けて製鐵所の操業再開決め4月6日第2次火入れが行われたが、わずか17日間で操業停止追い込まれた。そこで釜石鉱山田中製鉄所顧問である東京帝国大学工学部元教授野呂景義原因調査依頼された。炉内をより高温に保つため、高炉形状改め操業方法改善するという野呂提案を受け、高炉改造され7月23日第3次火入れが行われた。この改良成功しその後順調に操業進めて多く銑鉄を得ることができた。そして、翌年2月25日には、以前から建設進められていた東田第二高炉火入れが行われ、銑鉄生産量がほぼ2倍になった戦争が終わると今度民間から需要増え技術革新重工業発展に伴う需要増加応えるため、第一期拡張工事1906年 - 1910年)、第二期拡張工事1911年 - 1915年)、そして第一次世界大戦大幅に増えた鉄鋼需要応え第三期拡張工事1917年)、1927年昭和2年)には年間銑鉄生産量100万トン計画立案され、海に築く製鉄所先駆けとなった洞岡高炉群の建設決定1938年昭和18年完成)と、次々と拡張していき、国内大半需要八幡製鐵所賄うようになった当初農商務省管轄だったが、農商務省分割によって1925年大正14年)に商工省管轄となり、それは1934年昭和9年)の日本製鐵発足まで続いた

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