官営時代の中小坂鉄山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/14 13:46 UTC 版)
明治11年(1878年)6月26日、中小坂鉄山は正式に官営となり、鉱山局中小坂分局となった。官営となった中小坂鉄山であったが、設備面では熱風炉を一基増設し、高炉の補修を行ったのみで、基本的にこれまでの民営時代の設備をそのまま使用した。操業体制については木炭の製造、運搬をこれまで農閑期の農民の出稼ぎに頼っていたものを専属職員を置くように改め、木炭の運搬用に役牛を購入、更には木炭用の森林を新たに確保した。そして採鉱、運搬、土木工事に囚人を使役するなどという変更が加えられたが、民営時代と比較して最も大きな変化は、外国人技術者を雇うことなく日本人のみによって操業が行なわれた点である。官営での操業準備が整った明治12年(1879年)7月1日より中小坂鉄山は操業が再開された。 官営時代の中小坂鉄山の経営は不振を極めた。不振の最大の原因は、国産品を使用するようになった高炉の耐火レンガの耐火性が不足していたため、高炉操業のたびに耐火レンガの溶解や破損が発生したことであった。明治14年(1881年)7月には官営として経営を継続するか否かについて審査が行うため、工部省から係員が中小坂鉄山に派遣され、官営としては廃業が適当であるとの審査結果が出されたことにより、明治15年(1882年)1月16日、官営廃業と民間への払い下げが決定された。 しかし払い下げ希望者が現れたにも関わらず、中小坂鉄山の払い下げはすぐには行なわれなかった。これは陸軍省と海軍省が中小坂鉄山の官営継続を工部省に要請したためで、兵器の充実を図るために鉄資源の必要性が増していた陸軍と海軍が、官営鉄鉱山である中小坂鉄山の維持を考えたものとされている。陸軍省と海軍省の要請に基づき工部省は官営の可否について再調査を行なったが、やはり官営の維持は困難であるとの結論となり、明治17年(1884年)8月19日、中小坂鉄山は坂本弥八に払い下げられた。
※この「官営時代の中小坂鉄山」の解説は、「中小坂鉄山」の解説の一部です。
「官営時代の中小坂鉄山」を含む「中小坂鉄山」の記事については、「中小坂鉄山」の概要を参照ください。
- 官営時代の中小坂鉄山のページへのリンク