官営深川セメント工場の払下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 16:17 UTC 版)
「浅野セメント」の記事における「官営深川セメント工場の払下」の解説
浅野総一郎は東京の官営深川セメント製造所にコークスを納入していたが、その工場が民間に払下げられると聞いて、自らが払下げを受けようと決心した。資金が足りないので、朝日又吉を誘ったが逃げられてしまい、渋沢栄一に援助を求めた。当時、セメントの用途はレンガ積・石積の接合材(モルタル)の材料だけだった。それで渋沢は、セメントは見込みがない業種だから紡績をやったほうがいいと述べて反対した。しかし、第一に、火事で全財産を失った経験から、第二に、東京では火事が頻発し名物になっていたことから、浅野は不燃建築の重要性を痛感していたので、セメント業の将来性を信じて、熱心に懇願した。それで渋沢が役所に掛け合ってくれた。三井は倉庫にするために、三菱は別荘にするために払下げを希望したが、セメント工場を維持しようとした浅野に決まった。渋沢と役所はセメント工場がうまくいくか心配して、まず浅野に貸下て、うまく行ったら払下げることにした。1883年(明治16年)に貸与料を純益の五割にして浅野に貸下げられ、1884年(明治17年)に61,741円で払下げられた。浅野は朝6時から職工と一緒に働いた。また積立金制度(社内預金)を設けて郵便貯金の6朱より多い7朱の利子をつけて労働意欲を向上させた。これは浅野総一郎が発明した制度で、官庁や他社が調査に来た。
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