官営競馬時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 15:44 UTC 版)
江戸時代の三田四国町旧薩摩藩邸跡地に作られた三田育種場では農作物の改良・普及に加え牛馬の改良も行われ、馬術や打毬、馬市のほか馬の改良のための競馬も行われていた。競馬は1877年(明治10年)から1879年(明治12年)までは仮の馬場で行われたが、明治10年の開場の際に行われた最初の競馬では出走頭数も少なく、そのため内務卿大久保利通は陸軍に馬と騎手を参加させるように要請した。明治10年から12年までの競馬の賞金や観客についてなど詳細な記録はなく不明である。1879年(明治12年)12月には常設の馬場が完成し、完成記念で当時としては大掛かりな競馬が開催された。宮内省、内務省勧農局、陸軍が参加し、戸山競馬や根岸競馬で活躍していた馬や騎手が出走する。華族や政府高官も観覧し、陸軍楽隊が音楽を演奏する。勧農局の記録ではこの時から若干の賞金を出すようになったことが記されている。 三田育種場で行われた常設馬場完成記念の競馬や興農競馬会社の競馬は洋式競馬だが、三田育種場では和鞍による古流の和式競馬も行われていた。團團珍聞は洋風化政策を推し進める政府の役人が三田では和式競馬を行っていることを皮肉る風刺記事を載せている。
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