興農競馬会社
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1879年(明治12年)12月の常設馬場開場記念競馬が成功した直後から、この馬場での定期的な洋式競馬開催を目論む興農競馬会社設立の動きが起きる。 中心となったのは三田育種場の畜産部門の実務を請け負っていた商人木村荘平。1880年(明治13年)5月には木村のほか久保之昌、野津道貫、西寛二郎らの申請により、勧農局は興農競馬会社(Agricultural Racing Club)に馬場の使用を許可する(野津と西は共同競馬会社の幹事でもある陸軍将校)。 興農競馬会社は1880年(明治13年)5月15-16日に第一回目の競馬を施行する。また第二回目以降も毎年春と秋に競馬を開催する。(この時代、三田のほかの戸山、根岸の各競馬場も春と秋に競馬を開催している)同時期のほかの競馬会、横浜根岸のニッポン・レース・クラブや東京戸山で競馬を開催する共同競馬会社が社交を目的としたのと同じく興農競馬会社も馬匹の改良に加えて社交としての競馬を志す。 興農競馬会社が主催する第一回三田競馬には東伏見宮をはじめ西郷従道、伊藤博文、松方正義ら政府高官が観覧し、第二回目には東伏見宮、北白川宮、山階宮を始め多くの華族、政府高官、軍高級将校、財界人、外交官らが参加する。1881年(明治14年)春の第三回目には明治天皇も行幸された。 興農競馬会社は木村荘平、野津道貫のほか侍従長の米田虎雄、侍従藤波言忠や西郷従道が幹事を務める。 この当時は馬券を発売することが出来なかったので財政は会費・入場料・馬の出走料、官からの補助に頼っていたが苦しく、そのため幹事の一人で商人の木村荘平の発案で富くじ付き前売り入場券を発売する。馬券は禁止されていたので、この富くじは馬に賭けるものではなく、券にあらかじめ記された番号が抽選で当選すれば商品を得られるというものだった(当選には馬の勝ち負けは関係ない)。前売り入場券5000枚分は競馬の運営と競馬の賞金にあて、それ以上前売り入場券が売れたらその売り上げは入場券を買い当選した観客に景品として還元する。1万枚売れたら1等当選者は入場料の100倍の景品を取れる。 この仕組みが人気となり1880年(明治13年)秋の第二回興農競馬会社競馬では11,000枚の前売り入場券が売れ、競馬場は満員の人出となり、前売り券の売り上げで競馬の勝ち馬の賞金も増え、翌1881年(明治14年)の開催では2万枚の前売り入場券を売った。しかし、1882年(明治15年)富くじ取り締まりが強化され、興農競馬会社は富くじ付き前売り入場券を発売できなくなり収入は激減し、レースの賞金もきわめて低額になっていった。 興農競馬会社は競馬に様々なアイディア(日本馬限定にして他の競馬と差別化を図る、他の競馬場での未勝利・未出走馬のレースなど低額の賞金でも出走する馬を積極的に集める。各種のハンデ戦、学習院生徒が騎乗するレース)を実施し、三菱や皇族らの寄付もあり、観客は数多くあつまるものの、経営は苦しく1885年(明治18年)秋の開催を最後に興農競馬会社による競馬は終了する。 興農競馬会社の競馬には1881年(明治14年)春から1883年(明治16年)秋までの6場所連続で明治天皇が訪れるなど、それなりに注目を浴びてはいたが、1884年(明治17年)多額の経費を投入した上野不忍池競馬が屋外の鹿鳴館ともいうべき位置づけで大規模に華々しく開催されていた陰でひっそりと終わった興農競馬会社はニッポン・レース・クラブや共同競馬会社と比べるといささか時代的存在意義は小さかったといえる。
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