中小坂鉄山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/03 14:50 UTC 版)
中小坂鉄山(なかおさかてつざん)は[† 1]、群馬県甘楽郡下仁田町にあった鉄鉱山で、上信電鉄下仁田駅周辺の下仁田町中心部から約2.5キロ北西側の、下仁田方面から長野県佐久市方面へと抜ける中山道のかつての脇往還であり、現在の国道254号沿いに位置している[1]。
注釈
- ^ 群馬県史編さん委員会(1989)、下仁田中小阪鉄山研究会(2004)には、中小坂鉄山は「なかこさかてつざん」ではなく、「なかおさかてつざん」と読むことが明記されている。
- ^ 下仁田中小阪鉄山研究会(2004)によれば、同じ鉄鉱山の釜石鉱山は、石灰石に花崗岩を形成するマグマが貫入ことによって形成されたスカルン鉱床であるが、中小坂鉄山の場合、泥岩ないし砂岩にマグマが貫入しており、釜石鉱山などのスカルン鉱床とは同一に論じられない。
- ^ カベッチャラと字反替戸で行われたとされる中小坂鉄山始業期の生産施設については、現在のところ場所等は不明である。
- ^ 峯田、中江(2009)によれば、砂鉄を原料とした、たたら製鉄によって得られた鉄は珪素の含有量が少ないため、鉄製大砲鋳造に失敗したと考えられている。
- ^ 一倉(1986)によれば、水戸藩の反射炉事業に関わった大島高任以外の技術者の中には、中小坂鉄山の鉄について高く評価しない技術者もいた。
- ^ 原田(2006)によれば「半高炉」は溶鉱炉のことで、溶鉱炉の「溶」の字を同音の「羊」と書き表すうちに、羊ではなく「半」高炉と書かれるようになった可能性が高いとする。
出典
- ^ 一倉(1986)p.7、下仁田中小阪鉄山研究会(2006)p.23
- ^ 原田「中小坂鉄山高炉跡」(2009)pp.55-58
- ^ 原田(2006)p.2、p.5
- ^ 下仁田中小阪鉄山研究会(2004)p.14、竹内(2008)p.63、「下仁田町と周辺の地質」編集委員会(2009)pp.36-37
- ^ 下仁田中小阪鉄山研究会(2004)pp.14-16、高木(2008)p.68、「下仁田町と周辺の地質」編集委員会(2009)p.37
- ^ 原田「中小坂鉄山高炉跡」(2009)p.55
- ^ 一倉(1986)pp.18-19、下仁田中小阪鉄山研究会(2004)p.29
- ^ 大橋(1991)p.30
- ^ 大橋(1991)p.11
- ^ 大橋(1991)pp.31-34
- ^ 原田「銑鉄の溶解と大砲鋳造」(2009)pp.63-64
- ^ 一倉(1986)pp.22-23、大橋(1991)pp.157-160、原田「銑鉄の溶解と大砲鋳造」(2009)p.66
- ^ 大橋(1991)pp.155-156、原田「中小坂鉄山高炉跡」(2009)p.55
- ^ 一倉(1986)p.27、大橋(1991)p.151、p.156、原田「中小坂鉄山高炉跡」(2009)p.55
- ^ 一倉(1986)p.27
- ^ 原田「日本の近代化における中小坂鉱山の意義と遺産の概要」(2009)pp.48-49、原田「中小坂鉄山高炉跡」(2009)p.55
- ^ 一倉(1986)pp.29-31、原田(2006)p.3
- ^ 一倉(1986)p.32-33
- ^ 一倉(1986)pp.34-38、下仁田中小阪鉄山研究会(2006)p.33
- ^ 一倉(1986)pp.38-55、下仁田中小阪鉄山研究会(2006)pp.33-34
- ^ 一倉(1986)pp.51-55、大橋(1991)p.388、原田(2006)p.3、下仁田中小阪鉄山研究会(2006)pp.33-34、原田「中小坂鉄山高炉跡」(2009)p.56
- ^ 一倉(1986)pp.53-59、原田(2006)p.3、下仁田中小阪鉄山研究会(2006)pp.33-34、原田「中小坂鉄山高炉跡」(2009)p.56
- ^ 一倉(1986)pp.59-97、下仁田中小阪鉄山研究会(2006)pp.34-35
- ^ 一倉(1986)pp.95-109、大橋(1991)p.388、下仁田中小阪鉄山研究会(2006)p.35、原田「中小坂鉄山高炉跡」(2009)p.56
- ^ 一倉(1986)pp.110-114、大橋(1991)p.388、下仁田中小阪鉄山研究会(2006)pp.53-54、原田「中小坂鉄山高炉跡」(2009)p.56
- ^ 大橋(1991)p.393、原田「中小坂鉄山高炉跡」(2009)p.56
- ^ 大橋(1991)pp.391-392、原田(2006)p.6、原田「中小坂鉄山高炉跡」(2009)pp.56-57
- ^ 群馬県史編さん委員会(1989)p.297、日刊工業新聞(2010)p.198
- ^ 大橋(1991)pp.390-391、原田(2006)pp.6-7、原田「中小坂鉄山高炉跡」(2009)pp.56-57、日刊工業新聞(2010)pp.198-199
- ^ 大橋(1991)pp.390-391、pp.394-395、原田「中小坂鉄山高炉跡」(2009)p.56、日刊工業新聞(2010)pp.198-199
- ^ 原田(2006)pp.7-11、下仁田中小阪鉄山研究会(2006)pp.46-48、原田「中小坂鉄山高炉跡」(2009)p.58、原田「日本の近代化における中小坂鉱山の意義と遺産の概要」(2009)pp.53-55
- ^ 大橋(1991)pp.396-400、日刊工業新聞(2010)pp.198-199
- ^ 一倉(1986)pp.126-131、大橋(1991)pp.395-399
- ^ 一倉(1986)pp.126-131、大橋(1991)pp.395-396
- ^ 一倉(1986)p.134、大橋(1991)p.409、原田「中小坂鉄山高炉跡」(2009)pp.56-58
- ^ 群馬県史編さん委員会(1989)p.298、大橋(1991)pp.409-411、下仁田中小阪鉄山研究会(2006)pp.38-39、原田「中小坂鉄山高炉跡」(2009)pp.56-58
- ^ 下仁田中小阪鉄山研究会(2006)p.39、原田「中小坂鉄山高炉跡」(2009)p.58
- ^ 下仁田中小阪鉄山研究会(2006)p.39
- ^ 群馬県史編さん委員会(1989)p.634、原田(2006)pp.5-9、下仁田中小阪鉄山研究会(2006)p.43、原田「中小坂鉄山高炉跡」(2009)p.58
- ^ a b 原田「中小坂鉄山高炉跡」(2009)p.58
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