丹羽正庸による経営開始と外国人技術者
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「中小坂鉄山」の記事における「丹羽正庸による経営開始と外国人技術者」の解説
丹羽正庸は三条家の諸大夫を勤めていた丹羽家の生まれで、正庸も三条実万、三条実美に仕えてきた。明治初年、丹羽正庸は森寺常徳と共に三条家の金銭出納を担っていた。明治6年(1873年)12月に中小坂鉄山の経営権の譲渡を受けた丹羽正庸は、明治7年(1874年)2月から3月にかけて、「坑業譲請願」を各所に提出した。3月には工部卿であった伊藤博文の名で許可が下り、丹羽は東京府知事などを勤めた由利公正と、三浦安の支援を受けつつ、本格的な中小坂鉄山の開発に乗り出すことになった。 丹羽正庸はまずイギリス人鉱山技師であるエラスムス・H・M・ガールを招聘し、これまで使用していた溶鉱炉を廃止した上で、高さ約16メートル、炉の基部の直径約5.5メートルの新たな溶鉱炉と蒸気機関の建設を進めた。ガールは明治7年(1874年)5月には丹羽正庸が経営していた北品川のガラス工場の技師に転出したが、引き続き同じくイギリス人鉱山技師であるジョセフ・ウォートルスを雇い入れ、輸入した資材を用いてイギリス式の溶鉱炉、蒸気機関、熱風炉など全ての製鉄設備等を完成させ、また中小坂鉄山の鉄鉱石採掘方法の改善も図られた。また明治8年(1875年)12月からはスウェーデン人高炉技師のアドルフ・R・ベルギレンを雇い、ウォートルス、ベルギレンの技術指導のもと、中小坂鉄山は当時の日本最先端の設備を備えた鉄山として稼動されるようになった。
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