新川県とは? わかりやすく解説

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新川県

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/03 13:03 UTC 版)

新川県公立枇杷小学校の跡にある記念碑(富山県高岡市

新川県(にいかわけん)は、1871年明治4年)に越中国(当初は一部、のちに全域)を管轄するために設置された。現在の富山県にあたる。

概要

1871年(明治4年)、第1次府県統合により、富山県(第1次)全域(かつての富山藩の領域=婦負郡および新川郡の一部)に、金沢県(かつての加賀藩の領域)の礪波郡と新川郡を併せて成立した。県庁は当初富山県時代の富山富山城跡に設置しようとしたが、富山城跡が陸軍省の管轄になっていたため大蔵省管轄の県庁を設置することが出来ず、加えて城外に適当な建物が無かったことや新たに建設をする余裕も無かったことから、魚津の旧加賀藩郡代役所(後に魚津町役場が設置される場所[1])に移され[2]、県名も郡名を取って新川県に改称された。なお、富山には支庁が設置されていた[1]

越中国のうち射水郡のみは七尾県に編入されていたが、1872年(明治5年)に新川県に編入された。これにより、旧・越中国が初めて1つの県となり、現在の富山県の領域と同じになった。翌1873年(明治6年)9月6日、県庁は富山の富山城跡に戻された。これは魚津の県庁が県の北東にあり出張所(富山・高岡杉木新)設置のための費用がかさむことや、魚津庁舎自体が狭いという問題、富山に設置した方が経済面・財政面などで様々な利便性があるなどの理由があったためである[2]。また、東岩瀬が県庁所在地として適当ではないかという意見も出ていた[3]他、高岡への移庁も伺い上げていたが、費用面から断念された[1]。なお、県庁移転の際、元の所在地であった魚津の町民から反対の声は無かった[3]どころか、役所が無くなることを心から喜んだことも伝えられている[4]

1876年(明治9年)、第2次府県統合により新川県全域が石川県に編入され、廃止された(同9月には福井県嶺北も編入される)。その後、旧越中国内で分県運動が展開され、1883年、越中国4郡が石川県から分離され、富山県となった。

沿革

後年作成された1872年(明治4年)旧12月の行政区画地図における新川県

管轄地域

歴代知事

脚注

  1. ^ a b c 『魚津市史 下巻 近代のひかり』(1972年3月25日、魚津市役所発行)11頁。
  2. ^ a b c d e f g 『図説 魚津の歴史』(2012年3月31日、魚津市教育委員会発行)155 - 156p。
  3. ^ a b 『朝日町誌 歴史編』(1984年8月1日、朝日町発行)259頁。
  4. ^ 『魚津市史 下巻 近代のひかり』(1972年3月25日、魚津市役所発行)12頁。

参考文献

外部リンク

先代
富山県(第1次)
七尾県の一部(射水郡
行政区の変遷
1871年 - 1876年
次代
石川県



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