明治初年の中小坂鉄山
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明治維新後の中小坂鉄山は、まず土御門家の家臣であった内藤建十郎が明治3年(1870年)3月、小幡藩に対して鉱山開発願を行い、小幡藩より民部省に届出された内藤の開発願は受理され、4月には許可が下りた。しかし内藤は早くも同年5月には坪内半助、稲垣静雄、野村誠一郎の三名に権利を譲渡してしまった。 坪内半助、稲垣静雄、野村誠一郎の三名は、中小坂の村方の承諾を受けた上で改めて小幡藩に届出を行い、民部省からの鉱山開発許可は7月に下りた。坪内、稲垣、野村は職工を雇用して溶鉱炉の建設に取り掛かる直前になって、野村が他の二名に無断で小諸へ行ってしまったため、建設は中断された。やがて野村は小諸から戻ってきたが、まもなく金策のために渋川へ行き、その後やはり金策のため東京へ向かった。ところが野村からなかなか連絡がないため、東京の野村のところへ使者を立てて意向を尋ねたところ、野村は和式の製鉄法では十分な成果が望めないため中小坂鉱山開発から手を引く意向を示した。そのような中、もともと一橋家の家臣であった稲垣は徳川宗家が移住していた駿府へ向かい、坪内も金策に困ったことが原因と思われる「故障」のために事業から撤退した。すると12月になって突如野村が仲間を連れて中小坂に戻り、村人に無断で溶鉱炉を建設し始めた。 明治4年(1871年)5月には溶鉱炉が完成した。このとき完成した溶鉱炉は洋式を模したものであるが、基本的な構造はたたら炉であったものと考えられている。当時の溶鉱炉の操業場所や、水車送風を行っていたとの説はあるものの溶鉱炉の詳細な状況は現在のところ不明である。明治4年(1871年)8月には製鉄を開始し、250貫目の銑鉄が出銑したが、溶鉱炉が破損してしまい同年中は補修に費やされた。明治5年(1872年)1月以降もしばらくは不調が続いたが、5月以降は銑鉄の生産に成功するようになった。そして生産された銑鉄と中小坂鉄山の鉄鉱石の一部は、オーストリア=ハンガリー帝国のウイーンで開催される万国博覧会への出品候補とするために群馬県を通して工部省に送られた。 明治5年(1872年)8月になって、野村誠一郎は新川県の官吏に任命されたために中小坂鉄山の経営を離れ、鵜飼五郎兵衛、竹林市右衛門、小島市助、繁沢庄兵衛、酒井謙次郎の五名に権利を譲った。明治5年(1872年)には中小坂鉄山ではかなりの鉄を生産しており、50名から150名、多いときには170名の人々が働いていた記録が残っている。生産された銑鉄は下仁田、上田、東京などへ売却されたが、溶鉱炉建設の費用や諸経費が利益を上回り、中小坂鉄山の経営は赤字経営が続いていた。。 そのような中、中小坂鉄山の経営にトラブルが発生した。かつていったん「故障」のために中小坂鉄山の経営から手を引いた坪内半助が、矢野正恭、松本文吉、佐々木順治の四名で明治5年(1872年)11月に中小坂鉄山の鉱山開拓願を提出し、明治6年(1873年)2月には東京府から許可が下りてしまった。しかし中小坂鉄山は鵜飼ら五名の手によって稼動されており、ここに許可が重複してしまった。群馬県は工部省に伺いを立てたところ、工部省は双方の示談による解決を求め、群馬県が仲裁に入るよう依頼した。群馬県そして明治6年(1873年)6月15日以降は熊谷県の仲裁によって、明治6年(1873年)7月には双方は合併し、一つの会社組織となった。しかし明治6年(1872年)12月には経営権は丹羽正庸へ譲渡された。丹羽の手によって中小坂鉱山は新たな発展を遂げることになる。
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