明治初年から細倉鉱山株式会社まで
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「細倉鉱山」の記事における「明治初年から細倉鉱山株式会社まで」の解説
明治新政府は、1873年(明治6年)7月に太政官布告で日本坑法を発布して鉱物資源は全て国有であるとしたが、実際の鉱山経営は民間に開放され、形としては国からの請負稼行として鉱山の運営は行われた。これまで細倉鉱山で採掘、精錬に携わっていた山師たちは、明治新政府下でも幕末期と変わらず採掘や精錬に従事していた。その中で幕末期から細倉鉱山の開発に尽力してきた菅原啄治は、坑内の湧水により鉱石の採掘に困難を生じていたため、新政府に嘆願して排水用のポンプ導入のための支援を要請した。しかし菅原の計画は思うようにはかどらず、1871年には引退する。 菅原啄治の後、細倉鉱山の開発に力を注いだのが清水和兵衛であった。清水和兵衛は仙台藩時代の仙台に店を構えていた近江商人の一つであった日野屋の一員であり、滋賀県蒲生郡の生まれであった。清水は幕末期に日野屋の仙台店に責任者として赴任し、最初は衣類や農産物の取引に従事していたが、やがて鉱業に関心を抱き、まず宮城県名取郡での炭鉱開発に乗り出したが失敗し、続いていくつかの鉱山開発を試みるがやはり軌道に乗らなかった。 その頃、清水和兵衛に細倉鉱山の情報が入り、細倉鉱山が有望な鉱山であることを確信した清水は1873年、単独で細倉鉱山の開発と経営に乗り出すこととなった。清水は坑道内の湧水によって有望な鉱脈の開発が妨げられている状況を見て、水抜きのための坑道開鑿を進めたり、東京で資金調達に奔走したり、細倉鉱山の有望性の宣伝に努めるなど、鉱山開発に没頭した。清水の努力の成果もあって、1880年代後半には細倉鉱山は有望な鉱山であるとの認識が広まり、鉱山投資家として著名であった杉本正徳が細倉鉱山に投資を行い、1890年(明治23年)、細倉鉱山会社が設立された。細倉鉱山会社は清水、杉本の他に高田慎蔵、大島道太郎らが株主として名を連ねた。大島道太郎は「日本鉱業界の父」とも呼ばれた大島高任の長男であり、道太郎も青森県の尾太鉱山など東北地方各地の鉱山の設備の改善と更新や、生野鉱山の近代化を手がけており、1889年(明治22年)からは細倉鉱山の坑内設備の近代化、選鉱所、精錬設備に取り組み、その結果細倉鉱山の設備は一新された。そして大島の細倉鉱山近代化に必要な機械類を輸入したのが貿易商の高田慎蔵であった。 このようにようやく細倉鉱山の経営が軌道に乗り始めた矢先、1891年(明治24年)に清水和兵衛は急死した。清水の死後しばらくは鉱山経営は順調に伸びていった。細倉鉱山会社が設立された1890年には、後の東北本線となる日本鉄道会社線が上野駅から一ノ関駅まで延伸された、その結果細倉鉱山からの輸送力が強化され、鉱山経営に追い風となった。1891年には日本坑法が廃止となって鉱業条例が施行され、鉱業経営の自由度が大幅に増した。1893年(明治26年)には商法の改正に伴い細倉鉱山会社は細倉鉱山株式会社となった。そして1895年(明治28年)には鉛の生産高が日本一を記録するなど、鉱山経営は順調に進むかと思われた。
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