明治初年から細倉鉱山株式会社までとは? わかりやすく解説

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明治初年から細倉鉱山株式会社まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/06 02:43 UTC 版)

細倉鉱山」の記事における「明治初年から細倉鉱山株式会社まで」の解説

明治新政府は、1873年明治6年7月太政官布告日本坑法発布し鉱物資源全て国有であるとしたが、実際鉱山経営民間開放され、形としては国からの請負稼行として鉱山運営行われたこれまで細倉鉱山採掘精錬携わっていた山師たちは、明治新政府下でも幕末期変わらず採掘精錬従事していた。その中で幕末期から細倉鉱山開発尽力してきた菅原啄治は、坑内湧水により鉱石採掘に困難を生じていたため、新政府嘆願して排水用のポンプ導入のための支援要請した。しかし菅原計画思うようはかどらず1871年には引退する菅原啄治の後、細倉鉱山開発に力を注いだのが清水兵衛であった清水兵衛仙台藩時代仙台に店を構えていた近江商人一つであった日野屋一員であり、滋賀県蒲生郡生まれであった清水幕末期日野屋仙台店責任者として赴任し最初衣類農産物取引従事していたが、やがて鉱業関心抱き、まず宮城県名取郡での炭鉱開発乗り出した失敗し続いていくつかの鉱山開発試みるがやはり軌道に乗らなかった。 その頃清水兵衛細倉鉱山情報入り細倉鉱山有望な鉱山であることを確信した清水1873年単独細倉鉱山開発経営乗り出すこととなった清水坑道内の湧水によって有望な鉱脈開発妨げられている状況見て水抜きのための坑道開鑿進めたり、東京資金調達奔走したり、細倉鉱山の有望性の宣伝努めるなど、鉱山開発没頭した清水努力成果もあって、1880年代後半には細倉鉱山有望な鉱山であるとの認識広まり鉱山投資家として著名であった杉本正徳が細倉鉱山投資行い1890年明治23年)、細倉鉱山会社設立された。細倉鉱山会社清水杉本の他に高田慎蔵大島道太郎らが株主として名を連ねた大島道太郎は「日本鉱業界の父」とも呼ばれた大島高任長男であり、道太郎青森県尾太鉱山など東北地方各地鉱山設備改善更新や、生野鉱山近代化を手がけており、1889年明治22年)からは細倉鉱山坑内設備近代化選鉱所、精錬設備取り組みその結果細倉鉱山設備一新された。そして大島の細倉鉱山近代化必要な機械類輸入したのが貿易商高田慎蔵であったこのようにようやく細倉鉱山経営軌道に乗り始めた矢先1891年明治24年)に清水兵衛急死した清水死後しばらくは鉱山経営順調に伸びていった。細倉鉱山会社設立され1890年には、後の東北本線となる日本鉄道会社線が上野駅から一ノ関駅まで延伸された、その結果細倉鉱山からの輸送力強化され鉱山経営追い風となった1891年には日本坑法廃止となって鉱業条例施行され鉱業経営自由度大幅に増した1893年明治26年)には商法改正に伴い細倉鉱山会社細倉鉱山株式会社となった。そして1895年明治28年)には鉛の生産高日本一記録するなど、鉱山経営順調に進むかと思われた。

※この「明治初年から細倉鉱山株式会社まで」の解説は、「細倉鉱山」の解説の一部です。
「明治初年から細倉鉱山株式会社まで」を含む「細倉鉱山」の記事については、「細倉鉱山」の概要を参照ください。

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