明治初年の諸課題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 16:49 UTC 版)
明治維新後も新政府は、江戸時代の貨幣制度(三貨制度)をほぼそのまま受け継いだが、新政府が理想とする中央集権的国家を建設するためには、各藩が独自に発行していた藩札(さらにそれを受け継いだ府県札)の整理や、東日本の金(計数貨幣)と西日本の銀(秤量貨幣)の統一なども課題として残されていた。また、1両が4分、1分が4朱という一部4進法が用いられる貨幣体系も、慣れない外国人には理解しにくく、改善が求められていた。 また当時、国内外の金銀比価の差によって大量の金が国外へ流出していた上、さらに戊辰戦争による戦費や、殖産興業のために新政府は深刻な財政不足に陥っていた。大量の予算を充足する目的から、会計事務掛三岡八郎(福井藩士。のち由利公正)が導入した不換紙幣太政官札(10両、5両、1両、1分、1朱の5種)が大量に発行され、政府貨幣の信用が著しく低下していた。その価値は金正価100両に対し、太政官札120両から150両まで下落したという。 新政府は慶應4年閏4月21日(1868年6月11日)に貨幣司を設けて、接収した旧金座および銀座で二分判、一分銀、一朱銀および天保通寳を製造したが、硬貨の鋳造技術も旧態依然の未熟なものであり、江戸時代以来、偽造金銀銭が多く流通しており、貿易決済にも用いられたため、諸外国からの苦情が殺到。貨幣の国家管理は急務と言えた。また、方形の貨幣は流通に従って四隅が摩耗するなど、品質の低下が激しく、円形通貨の必要性も叫ばれた。
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