明治初期から天保山町の設置まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 14:06 UTC 版)
「天保山町 (鹿児島市)」の記事における「明治初期から天保山町の設置まで」の解説
明治時代初期には天保山は鹿児島郡鹿児島近在武村及び荒田村の飛地となっており、1889年(明治22年)の町村制施行によって鹿児島郡西武田村大字武の一部となった。 鹿児島市が編纂した「鹿児島のおいたち」によれば天保山について以下のとおり記述している。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}当時の天保山は旧砂揚場ともいわれ、堀できりはなされ、西側半分は古田浜等の塩田であった。・・・天保山一帯や現在の甲南中学校附近一帯は、市の区域に挟まれながら、当時西武田村の飛び地であった —鹿児島のおいたち 1904年(明治37年)と1908年(明治41年)に天保山は大日本帝国陸軍の演習地に編入され、その後大蔵省の所管となった。 1911年(明治44年)9月30日に鹿児島郡西武田村の大字武(現在の武)のうち飛地となっていた天保山(現在の天保山町の北半分)の区域を鹿児島市に編入し、下荒田町に属することとなった。
※この「明治初期から天保山町の設置まで」の解説は、「天保山町 (鹿児島市)」の解説の一部です。
「明治初期から天保山町の設置まで」を含む「天保山町 (鹿児島市)」の記事については、「天保山町 (鹿児島市)」の概要を参照ください。
- 明治初期から天保山町の設置までのページへのリンク