明治初期〜町村制施行まで
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明治2年の版籍奉還後、同2年旧藩が廃止された。藤戸地域を治めていた岡山藩では事実上、大庄屋・名主・五人組頭などの役職・名称を廃止して、同3年から大里正・里正・目代の役職・名称を用いていることが、中島本家(中島貢氏)や旧藤戸町役場などの所蔵文書で確認されている。当時、天城村の大里正は中島賢吉、藤戸村は大里正は日笠武一郎であった。 明治4年7月、廃藩置県により、当時の岡山県は12郡777村、うち児島郡は91村(高5万石余)からなっていたが、同5年11月に岡山県を41区に分かち、戸長を置いて区を支配させることとした。うち児島郡は第36区から第41区までを6区に分けた。そして区の下に小区を置き、副戸長をおいて支配させることとした。児島郡は44小区からなっており、藤戸村は粒江村と第36区2番小区を、天城村は同区4番小区をなしていた。そして日笠武一郎と中島賢吉とは大里正から引続いて、それぞれ第36区(6番小区まで)と第37区(3番小区まで)の戸長となっている。 同7年3月、岡山県に16ヵ所の会議所を置き、種々の問題を審議することとした。児島郡では第13番会議所(36区・37区)が藤戸村の藤戸寺に、第14番会議所(38区・39区)が尾原村(現、倉敷市尾原)に、第15番会議所(40区・41区)が八浜村(現、玉野市八浜)に置かれた。そして区長・副区長(2〜3区にいずれか一名)、戸長・副戸長(1〜2小区に正副一名ずつ)、保長(一村に一名)、甲長(25戸に一名)を置き、それぞれの区域を治めさせた。 同10年11月、区長・戸長を廃し、会議所も廃止して、区務所と戸長役場が設置された。従来の区制の代りに郡を1区とした大区(児島郡は第7区)と、戸長役場区域(児島郡は11区域)とが新たに策定された。区務所には区長を置いて区内の事務を取り扱わせた。児島郡の区役所は迫間村(現、玉野市迫間)に設置された。戸長役場には戸長2名を置いてその区域の事務を取り扱わせた。戸長役場区域は数力村から十数力村にわたり、各村には副戸長1〜2名を定めて村内の事務をとりまとめた。藤戸村と天城村は、福江村・曽原村・串田村(いずれも現在は倉敷市、郷内地域内)・粒江村・粒浦村・八軒屋村・黒石村(いずれも現在は倉敷市、粒江地区内)・浦田村(現在は倉敷市、葦高・福田町の各地区内)の村々と第10戸長役場に属していた。第10戸長役場の戸長は井上信一郎と山本省三、藤戸村の副戸長は星島寛、天城村の副戸長は小川馬太郎と安田竹太であった。 同11年7月には郡区町村編制法が制定され、従前の区割を廃して新しく郡区町村を編制し、新たに郡長・区長・戸長を置き、戸長は町村民の公選により、その町村の事務を執った。児島郡は90村からなり、役所を味野村(現在は倉敷市児島地域、味野地区内)に置いた。天城村の戸長は井上信一郎(のち同15年県会議となる)・中島源太郎・安田竹太らが勤め、藤戸村の戸長は星島寛、星島謹一郎らが勤めている。 同16年2月には従来の行政区割を改正、児島郡を32部に分かち、その区域に新たな村名を設定し、従来の村名を部落・大字とした。各村に戸長と用掛とを置いて事務にあたらせた。第10部を旧天城村・旧藤戸村とし、この2旧村域をもって新たに天城村とした。旧天城村と旧藤戸村は、それぞれ天城村天城と天城村藤戸と称することとなり、現在の藤戸地区の範囲は、このときに確定した。なお、この天城村の戸長は星島謹一郎・星島逸造・藤田秀雄らが勤めている。
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