明治初年の測量事情
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 09:01 UTC 版)
「日本経緯度原点」の記事における「明治初年の測量事情」の解説
「本初子午線#日本における本初子午線」、「日本の三角測量の歴史」、および「経度の歴史」も参照 明治初年、海軍や工部省・内務省などさまざまな機関が近代測量を導入したが、政府内で測量原点の統一が図られているとは言い難い状況にあった。 海図作成を必要とした海軍は、1871年(明治4年)7月28日に水路局を設立。1872年(明治5年)4月24日の太政官布告130号で、海軍省ではグリニッジ子午線を本初子午線として採用し、築地の海軍省用地(のちの築地市場付近)に設けた海軍省標竿を東経139°45′25.05″と定め、これを日本の測量の基準とするという方針が布告された。 一方、国内行政のための地図製作も必要とされ、1872年(明治5年)3月に工部省測量司は測量師長マクヴィンらの指導のもと東京府下で三角点の設置と測量を開始する:1。この時、最初の三角点が皇居(江戸城)富士見櫓に置かれた:1。工部省測量司は1874年に内務省に移管され、のちに内務省地理局となる。内務省地理局は、当初は富士見櫓を通る子午線を経度0度(本初子午線)とし:2、次いで1877年(明治10年)に溜池葵町(現在の港区虎ノ門)に設置した観象台を、さらにその後1882年(明治15年)に旧江戸城本丸天守台を、経度の起点に改めた。
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