明治初期の困窮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 05:07 UTC 版)
熊本へ戻った三郎であったが、維新により藩からの扶持はなくなっており、糊口を凌ぐ術を探す。しかし塗師屋になろうとしてひどい漆負けを起こしたり、あるいは提灯張り、小菓子店などを営むものの、西南戦争により住居を焼かれるなど、生まれたばかりの子供や義母を抱え困窮の日々を送る。 その後、熊本鎮台会計部の小使を経て、最終的には五福小学校(現在の熊本市立五福小学校)の校番に落ち着き、以後65歳の1907年(明治40年)に至るまでこの職にあった。 この間にも能役者として活動を続け、特に友枝氏が代々勤めてきた北岡神社の神事能は、決して欠かすことがなかった。しかし、同郷・同年代の櫻間伴馬が1879年(明治12年)に上京して名声を得たのに対し、三郎は郷里を離れることはなかった。病気のために耳が悪く、また声が嗄れていたこと、加えて名利を度外視した恬淡とした性格が、その理由として挙げられている。
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