明治初期の「機山公霊社」建設運動
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「武田神社」の記事における「明治初期の「機山公霊社」建設運動」の解説
1872年(明治5年)6月、明治新政府は地租改正に際して武田時代の遺制とされる大小切税法の廃止を断行し、これに対して峡東地域の諸村が蜂起し、大小切騒動が発生する。大小切騒動は鎮圧されるが、首謀者の多くは処罰され、山梨県令・藤村紫朗の主導する県政にも影響を及ぼした。 大小切騒動の後に山梨県庁は山梨県民の武田信玄への追慕を障害と認識し、明治初年には『峡中新聞』においては信玄を悪人とする論説を掲載することも行っていた。このころ全国的にも自由民権運動が興隆し、山梨県でも反藤村県政の動きとして民権運動が発生する。明治政府はこれに対して地域の偉人を崇拝する感情を尊重する方針に転換し、山梨県では1880年(明治13年)6月には明治天皇の東山道巡幸が行われ、同年6月17日から6月22日にかけて明治天皇の山梨県巡幸が行われた。山梨県巡幸では巡幸御用掛から武田信玄ゆかりの社寺の調査・保存のために保存金を下賜された。その意図は大小切騒動で消沈した山梨県民に対し、武田信玄に対する心情を回復することで、新政府への帰属意識を増幅させるものであったという。 山梨県では県令藤村の相談役でもある第十国立銀行頭取の栗原信近中心に、尾沢孝治、小田切謙明、加賀美平八郎ら民権運動家が霊社建設に賛同し、古城地の公園化と「機山公霊社」建設運動が起こる。山梨県では古城地の官有地払い下げを行い公有地化を進めるが、民権運動家でも依田道長ら巨額の費用を投じた霊社建設に否定的な意見も上がり、躑躅ヶ崎館は県立躑躅ヶ崎公園となり、霊社建設は一時棚上げされた。なお、県立躑躅ヶ崎公園は当時、現在の甲府市太田町に所在する太田町公園(甲府市遊亀公園)に次ぐ二例目の県立公園であった。
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