小栗忠順と中小坂鉄山
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万延元年遣米使節の目付として渡米した小栗忠順は、ワシントン海軍工廠などの見学を通じて、日本に鉱工業を興す必要性を痛感した。小栗の進言によって慶応元年(1865年)横須賀造船所の建設が開始され、横須賀造船所で用いる鉄の供給元として中小坂鉄山が注目されることになった。 慶応元年(1865年)5月、小栗忠順らは中小坂鉄山の開発と溶鉱炉の建設を行うよう建議を行った。建議の中で小栗らは、まず当時の情勢は軍備増強が望まれている状況であり、そのため鉄山を開発する重要性が高まっており、小幡藩領内の中小坂には良質な鉄鉱石が大量に存在し、また小幡藩主も幕府の高炉建設に賛成していることを述べていた。建議の結果、慶応元年(1865年)閏5月には中小坂鉄山に溶鉱炉を建設するための見分が武田斐三郎らによって実施された。見分の結果、中小坂鉄山の鉄鉱石は埋蔵量が豊富である上に品位が極めて高いため、中小坂に溶鉱炉を建設することとしたいが、近くで採掘される石炭は十分な供給量が見込めないため、当面木炭を使用する方針であること。予算の都合でまず半鉱炉1基を建造することが望ましいとの報告がなされた。 慶応元年10月12日(1865年11月29日)、幕府は中小坂鉄山の領主である小幡藩主に対して、中小坂鉄山に溶鉱炉を建設するよう通達が出され、同年中に陸軍奉行から勘定奉行に対し、中小坂鉄山の半鉱炉で使用するための炭を確保するため、御用林の使用について相談がなされている。続く慶応2年(1866年)には溶鉱炉建設のための水運についても調査が行われたが、慶応3年10月14日(1867年11月9日)には大政奉還が行われ、江戸幕府の手による中小坂鉱山の溶鉱炉建設は日の目を見ることはなかった。
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