小栗美作の執政
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光長入封から41年目の寛文5年12月(1666年2月)、高田は地震により大きな被害を受け、藩政を執っていた筆頭家老小栗五郎左衛門・次席家老荻田隼人が倒壊家屋により共に圧死した。五郎左衛門の跡は嫡男美作が(小栗家は知行1万7,000石の筆頭家老の家柄)父親の高田城代を継ぎ、隼人の跡は嫡男主馬が1万5,000石で同じく清崎城代を継いだ。 美作は藩政を主導するようになると、幕府から5万両を借り受けて高田の町の復興にあて、高田の区画整理を断行して現在の上越市の市街を形成した。この機に藩士の禄を地方知行制から蔵米制に改めた。また、直江津の築港、関川の浚渫、新田の開墾、特産品(たばこ)の振興、銀の発掘などに手腕を振るい、江戸の殖産家河村瑞賢を招き中江用水などの用水路の開削を行った。美作は藩政に多大な治績を上げたが、蔵米制への移行は多くの藩士にとっては減収となり、美作が怨まれた。また、美作自身の贅沢好きで傲慢な性格からも悪い感情を持たれ、さらに藩主光長の異母妹勘子を妻にしたことも、のちに騒動の原因のひとつとなった。
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