小栗美作との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 06:58 UTC 版)
寛文6年(1666年)、父・長磐が越後高田地震により死去したため家督を継ぎ、次席家老・糸魚川城代(1万4千石)となる。地震後、藩主松平光長の命を受け、地震で倒壊した高田城二の丸の瓢箪島の修復工事を行ったが失敗。筆頭家老小栗美作(1万7千石)が代わって完成させたため、面目を失った本繁は、美作を敵視するようになった。 美作は藩士の禄を地方知行制から蔵米制に改め、殖産興業を推進するなど藩政改革を推し進めた。しかし蔵米制への移行は多くの藩士にとっては減収となり怨まれ、また美作自身の贅沢好きで傲慢な性格から悪感情を持たれ、藩主光長の異母妹勘子を嫁にしたことものちに誤解を生むきっかけとなった。
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