中小坂鉄山の経営破綻と官営化
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「中小坂鉄山」の記事における「中小坂鉄山の経営破綻と官営化」の解説
当時の日本としては最新鋭の設備を備え、比較的安価な建設費用と省力化によって良質な製品を安価に製造することに成功した中小坂鉄山であったが、その経営が軌道に乗ることはなかった。明治6年(1873年)の世界恐慌の影響で鉄の価格は大きく下落しており、その上にトン当たり約36円というコストで銑鉄生産に成功した中小坂鉄山に対抗して、外国からの鉄輸入業者はダンピングを行い、中小坂鉄山の鉄価格よりも更に安い価格で鉄を供給するようになった。当時の日本は不平等条約のために関税自主権がなく、外国からの安価な鉄の流入に対抗する効果的な手段は無かった。日本の鉄全体の関税率は当時の国際基準より低く定められていた上に、特に船舶のバラスト用に積み込まれた鉄材の関税率は極めて低く、恐慌の影響で安価となっている上に低関税、更にダンピングによって極めて安価な鉄が日本に輸入される状況下では中小坂鉄山の鉄は対抗出来なかった。また耐火レンガなど輸入品によって建設された鉄山と製鉄所の設備の更新のため、高価な物資の輸入を続けなければならなかった点も経営を圧迫した。 明治9年(1876年)7月、中小坂鉄山を経営していた丹羽正庸は約10万円の借財を負って経営から手を引き、由利公正と三浦安が経営を引き継いだ。経営の再建を急いだ由利らは、明治9年(1876年)11月に東京府瓦斯局からガス用鋳鉄管を大量受注をした。この受注については、東京府瓦斯局のフランス人技師であるアンリ・プレクランが中小坂鉄山と製鉄所を視察した結果、生産される鋳鉄そのものの品質の高さは認めたものの、鋳鉄管を製造する設備と技術者の不足を厳しく指摘し、ガス用鋳鉄管の製造は不可能であるとした報告を無視して行われた。果たして中小坂鉄山で製造された鋳鉄管のほとんどが著しい不良品で、東京府から前渡金として渡されたガス管製造代金と内務省勧商局からの借入金の返済に窮することになった。 経営に行き詰った由利公正らは明治10年(1877年)11月、中小坂鉄山と製鉄所を官営とし、併せて東京府や内務省勧商局などの返済すべき借財を政府に肩代わりを依頼する願を工部省に提出した。由利らの願は認められ、明治11年(1878年)5月、中小坂鉄山は官営となることが決定された。
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