民営時代
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詳細は「中村電気軌道」を参照 中村線は、名古屋土地株式会社という不動産会社が土地開発のため敷設した路線を前身とする。会社は1911年(明治44年)9月に設立。同社は名古屋駅南方の陸橋「明治橋」より西へ向かい、稲葉地にて北に折れ中村公園正門へ至る道路を1913年(大正2年)春に整備し、沿道で宅地造成を進めた。次いで軌道建設に着手し、1913年10月17日、明治橋停留場から公園前停留場へ至る路線を開業させた。 電車開業により、沿線の牧野・米野・下中・中村といった地域では徐々に民家が増加し市街化が進んだ。また1923年(大正12年)4月、沿線に大須から遊廓が移転、中村遊廓が出現した。電車はその後1926年(大正15年)6月1日付で名古屋土地から中村電気軌道に経営が移される。しかし昭和に入ると、名古屋駅へ直通する他社の路線バスに乗客を奪われ電車の乗客は著しく減少した。中村電気軌道でも自衛のため1929年(昭和4年)1月より名古屋駅前と中村公園を結ぶ兼営バスを開業する。その後、電車の乗客数は兼営バスの6分の1まで縮小した。
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民営時代
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「札幌石材馬車鉄道」も参照 1918年(大正7年)8月 - 9月に開道50周年を記念して北海道大博覧会が開催されることになったのを機に、馬車鉄道を路面電車化しようという動きが高まり、1916年(大正5年)10月には「馬車軌道」から「電気軌道」へ社名を変更した。 改軌および電化の工事は1918年(大正7年)4月から始められた。当初は軌間を1,372 mm(馬鉄軌)とする計画で、車両はイギリスのデッカー社から輸入する予定だったが、第一次世界大戦の影響でヨーロッパからの海上輸送は困難となり、急遽名古屋電気鉄道から中古の車両を譲り受け、またアメリカからやはり中古のレールを輸入した。この時、軌間は車両に合わせて鉄道院管轄下の国有鉄道(国鉄、JRの前身)と同じ1,067 mmに変更された。こうした混乱のため、8月1日の博覧会開会に間に合わず、8月12日に停公線(札幌停車場 - 中島公園、のちの西4丁目線および中島線)、南四条線(南4条西3丁目 - 南4条東3丁目、のちの豊平線)、一条線(南1条西14丁目 - 南1条東2丁目)が開業した。 その後、旧馬車軌道線を中心としてほぼ毎年のように路線の新設・延長が相次いだ。冬季は雪に悩まされ、馬そりによって代行輸送することも少なくなかったが、1925年(大正14年)より運行を開始したササラ電車により改善されている。ササラ電車は現在でも軌道の除雪に活躍し、札幌の冬の風物詩となっている。
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