開通と運営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/08 12:51 UTC 版)
当鉄道の計画が持ち上がるきっかけは、当時満州北部に巨大な鉄道網として君臨していた東清鉄道が斉斉哈爾を通る際、線形上中心を通ることが出来ず、市街地から遠く南に20キロも離れた場所に街の代表駅であるはずの斉斉哈爾駅を造ったことにある。このため、斉斉哈爾の人々は旅客輸送でも物資輸送でも、20キロ以上もの道のりを経てからでないとままならない状態が続いていた。 これを問題視した黒竜江省の巡撫(省の長官)・程徳全は、この不便を何とかして改善しようと、1906年に斉斉哈爾の中心部と東清鉄道斉斉哈爾駅を連絡する省営の軽便鉄道を計画した。この計画はあくまで「省営」で列強の力を借りることは考えておらず、事実資本金として用意された32万両は、省内の旗人(清代の支配階層)の所有地を買収したり、荒地などの地価を計算したりした上で不動産により調達し、残りを省の公金や政府からの借款により調達していた。これらはすべて株式によっており、それぞれの株式を元の土地の持ち主である旗人や省が持つことで、当時窮乏していた旗人の財政を救い、さらに公益金を保持出来るようにするという、ひとり交通の至便化に留まらずさまざまな方面に利益をもたらすように工夫がなされていたのである。これは当時政府から発令されていた、旗人に支給される年金を公益事業に活用することを命じる旨の命令によるものでもあった。 この時点で満州には南満州鉄道・東清鉄道・京奉鉄路の3つの鉄道が存在したが、南満州鉄道は日本資本、東清鉄道は露清密約で作られたロシア系銀行の露清銀行の借款、京奉鉄路はイギリス系銀行の香港上海銀行の借款による鉄道で、一つとして中国資本単独の鉄道は存在しなかった。その中で、このようにして自力で省が資金を集めて鉄道を建設するというのは初めてのことであり、当鉄道は満州初の純粋な中国資本による鉄道となった。ただし、工事や車輛の手配はドイツ系の商社・泰来洋行に委託されている。 しかしここで問題が起こった。終点となる東清鉄道斉斉哈爾駅の周囲には「鉄道附属地」と呼ばれる租借地があり、駅に乗り入れるには東清鉄道およびロシア側の許可を得る必要があったのであるが、交渉の甲斐なく蹴られてしまったのである。 この対応に、やむなく省側では工事を附属地境界手前の紅旗営子屯附近で中断し、ここを当座の終点とすることになった。このようにして完全ではないものの、1909年8月13日に何とか開業にこぎ着けた。これが「斉昂軽便鉄路」である。 このようにして省営鉄道として開通した当鉄路であったが、その運営は大変なものであった。路線が低地を走っていることから、雨の多い時期に斉斉哈爾周辺を流れている嫩江が氾濫し、たびたび市街地手前の線路が冠水する被害に遭っていたのである。この洪水はひどい時には2ヶ月も水が引かないことがあり、その間当線は手前で折り返し運転もしくは全面運休を迫られていた。 それでも地元の足としてめげずに走り続けた当線は、1912年に省から離れ、民営化されることになった。この民営時代には、長く続けられていた東清鉄道・ロシアとの乗り入れ交渉がやっと成立し、1914年9月4日に一定の金を払うことを条件に東清鉄道斉斉哈爾駅へと路線を延伸、終点の駅名を起点と同一駅名となるのを避け地名から「昂昂渓」とし、ようやく斉斉哈爾-昂昂渓間全線が開通するに至った。なおこの時点では東清鉄道・斉斉哈爾駅と同位置に当鉄道・昂昂渓駅があるという状態であったが、のちに東清鉄道側の駅が改称、同じ昂昂渓駅となった。 しかしこのような功績はあったものの、民間による運営は全体的にうまく行かずにトラブルが続出したため、やむなく1918年に省の監督下で民間に営業を委託するという「官督商弁」という半官半民の経営形態に移行、ようやく持ち直すことになった。
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