開通から休止まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 09:30 UTC 版)
1920年10月24日に鉄道路線が開通した。27日には役人や名士を招待し寿都駅前で開通式を挙行し、提灯行列や花火打上げなど町を挙げての余興がおこなわれた。27・28日は無料運転となり7170形機関車が走った。旅客と貨物輸送を行い、利用客は年間10 - 13万人前後、1946年のピーク時には31万人を運んだ。また、ニシン輸送の際には、魚油で列車がスリップしたというエピソードもあったらしい。畑金吉は、政府に買い上げてもらうために、国会がある度に議員全員に陳情を行ったが、それが実現されることはなかった。一方、事業資金債務は13年で償還し終え、順調な経営を進めていた。しかし、第二次世界大戦後、物価・人件費は高騰するのに対して、運賃は物価庁からの許可が得られず数年間据え置かれたままであったことから、経営が次第に悪化し始めた。1952年には経費削減の一環として、燃費のいいディーゼル機関車が導入されたりした(営業用としては北海道初)。しかし、鉱山の閉山、ニシン漁の衰退、道路整備によるトラック輸送の増加、バス運行による鉄道利用客の減少により経営は悪化する一方で、末期には1日に1往復であったが、黒松内駅に国鉄の臨時列車があるとホームが使用できないため、黒松内行きは旅客扱いをしないという有様であった。それでも岩内線と連絡して函館本線の勾配緩和別線にする計画が存在していて、日本国有鉄道による買収を期待しながらバスやタクシー・砕石など経営の多角化を図った。だが、1968年に豪雨による河川増水で路盤が流出し、同年8月14日に運行休止に追い込まれた。
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