開通から第2次世界大戦まで
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「ボーフム/ゲルゼンキルヒェン市電」の記事における「開通から第2次世界大戦まで」の解説
ルール地方の工業・炭鉱都市であるボーフムやヘルネに路面電車が開通したのは1894年11月23日、総延長6.8 km、所要時間25分の路線だった。開業当初こそ最新鋭の公共交通機関であった路面電車への懐疑論は強かったが、翌1895年には計画を上回る需要から列車本数の増加が行われるほどの高い人気を得て、それまで各都市を結んでいた乗合馬車を廃止に追いやった。また、1896年1月13日には路面電車の運営組織としてベルリンにボーフム/ゲルゼンキルヒェン路面電車会社(BochumGelsenkirchener Straßenbahnen AG、BOGESTRA)が設立された。この時点で路面電車網はゲルゼンキルヒェンにも広がり、全長37 km・11系統の路線網が築かれていた。 その後も路面電車網は拡大を続け、1898年の路線キロは44.4 km、1900年には53.1 kmにも達し、1904年には100 kmを超えた。また同年には鉄道との踏切での交差を避けるため、線路を潜る形で地下区間が初めて登場した。車両も大型化に加え、制動装置の強化をはじめとした安全対策が施され、1906年からは連結運転も行われるようになった。一方、BOGESTRAは設立当初ジーメンス・ウント・ハルスケと業務提携を結び、同社が列車の運営を行っていたが、負債額が増大したことでこの提携は1907年に双方の同意の元で解消され、以降の運営はBOGESTRAが単独で実施している。 第一次世界大戦中は多くの男性従業員が兵役に出されたため、運転士など様々な仕事に女性が起用された。一方で1914年時点で2,540万人だった年間利用客数が翌1915年には2,400万人と一時的に減少したが、1917年には5,000万人に急増した。終戦後は敗戦の影響による経済的混乱、それに伴うハイパーインフレーションの影響により、路面電車の運賃や従業員の給料、そして会社の損失は増加の一途を辿り、年間利用客数も1922年に70万人と急速な落ち込みを見せた。その結果、ゲルゼンキルヒェン市内の路線を含めた一部区間が運行を休止する事態となった。 その後、経済が落ち着きを取り戻すと共に路面電車も復興を始め、1924年にはBOGESTRAの決算が黒字に戻った他、翌1925年には年間利用客数も4,100万人に回復した。以降は新型車両の導入や路線の延長、新しい車庫の建設など規模の拡大が行われた他、1931年に民営の路面電車事業者であったヴェストファーレン路面電車会社(ドイツ語版)(Westfälischen Straßenbahnen GmbH)が破産した事を受けてBOGESTRAは路線の運営を引き継ぐ事となり、1938年には同社を買収し市電の路線網に組み込んだ。これにより、1926年から開始された路線バス事業と合わせてBOGESTRAは当時のドイツ最大の公共交通事業者となった。 第二次世界大戦開戦後、BOGESTRAが運営する路面電車網ではトラックを補完するため貨物輸送も実施するようになった他卸売市場への路線延伸なども行われ、輸送量は大幅に増大したが、それに伴う車両の増備は行われず、混雑が激化した。また、道路建設や路面電車網の延伸などには強制労働収容所にいた多数の強制労働者が駆り出された。そして1944年11月、ボーフムやゲルゼンキルヒェンは連合国軍による空襲を受け、市街地と共に路面電車や路線バスなどBOGESTRAが運営していた公共交通網は壊滅的な被害を受けた。
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