片倉時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 15:52 UTC 版)
株式会社富岡製糸所は当時、日本最大級の繊維企業であった片倉に合併されることになり、株主総会での合意を経て、1939年(昭和14年)4月29日に公告された。この実質的に原が片倉に委任した一連の経緯に関し、原側は片倉以外には「この由緒ある工場を永遠に存置せしむる」委任先が存在しないという認識を示していた。原富太郎は後継者を失った中で自身の高齢についても懸念を抱いていたとされるが、富岡製糸所が片倉に合併されたこの年に没している。なお、前述のように官営時代末期の最初の入札時に応札した一人が片倉兼太郎であり、三井家が落札したときに競り負けた企業の一つ、開明社でその時に実権を握っていたのも片倉兼太郎であった。こうしたことから、片倉は古くから富岡製糸所の経営に意欲を持っていたとされている。 合併の年に片倉富岡製糸所と改称され、1940年(昭和15年)には18万9000キログラムの生産量を記録し、過去最高記録を塗りかえたが、太平洋戦争直前の社会情勢は生産に多大な影響を及ぼした。1941年(昭和16年)3月公布の蚕糸事業統制法によって片倉富岡製糸所も統制経済に組み込まれ、同年5月の日本蚕糸統制株式会社の成立によって、富岡製糸所は片倉から同株式会社に形式上賃貸されることとなった。片倉本体は航空機関連の軍需生産に軸足を移し、1943年(昭和18年)に片倉工業株式会社と改称した。太平洋戦争中には片倉が所有していた製糸工場は廃止や用途転換が多く見られたが、富岡製糸所はその主たる用途が軍需用の落下傘向けであったとはいえ、製糸工場として操業され続けた。兵隊として男子を取られていた農村の労働力を埋める必要から、工女の数は著しく減少したが、繰糸機の増設によってカバーした。ただし、輸出中心に発展してきた富岡製糸所の歴史の中で、初めて輸出量が皆無となった。 戦後、GHQは経済の民主化を進め、1946年(昭和21年)3月1日に日本蚕糸統制株式会社も解散させられ、富岡製糸所も名実ともに片倉に戻った。この年から片倉工業株式会社富岡工場となった。 前述の通り、富岡製糸所は戦時中も一貫して製糸工場として機能し続けた少ない例の一つであり、しかも、空襲などの被害も受けることなく、終戦を迎えていた。1952年(昭和27年)からは自動繰糸器を段階的に導入し、電化を進めるために所内に変電所も設けた。その後も、最新型の機械へと刷新を繰り返し、1974年(昭和49年)には生産量37万3401キログラムという、富岡製糸場(所)史上で最高の生産高をあげた。 この間、工場労働者を取り巻く環境も変化した。戦後、労働者保護法制が整備されたことから、二交替制が導入された。片倉工業は戦前に青年学校令(1935年)に基づく工場内学校を設置しており、富岡製糸所にも合併した年に私立富岡女子青年学校を開校していた。戦後になると、1948年に新しい時代に対応した教育要綱を社内で作成し、各地に知事認可で高校卒業資格を取得できる片倉学園を設置した。富岡工場にも、寄宿舎入寮者は無料で学べた片倉富岡学園が開校された。当時は義務教育終了と同時に就職する女性も多かったため、片倉工業はそういう女性たちに良妻賢母教育を施すことを自社の社会的責任と位置づけていたのである。 しかし、和服を着る機会の減少などの社会情勢の変化に加え、1972年(昭和47年)の日中国交正常化が中国産の廉価な生糸の増加を招いたことから、生産量は減少に向かい、1987年(昭和62年)2月26日に操業を停止、同年3月5日に閉業式が挙行された。
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