富岡製糸場
(片倉富岡製糸所 から転送)
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富岡製糸場(とみおかせいしじょう、Tomioka Silk Mill)は、群馬県富岡市に設立された日本初の本格的な機械製糸[注釈 1]の工場である。1872年(明治5年)の開業当時の繰糸所、繭倉庫などが現存している。日本の近代化だけでなく、絹産業の技術革新・交流などにも大きく貢献した工場であり、敷地を含む全体が国の史跡に、初期の建造物群が国宝および重要文化財に指定されている。また、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産として、2014年(平成26年)6月21日の第38回世界遺産委員会(ドーハ)で正式登録された[1]。
注釈
- ^ 富岡製糸場は上毛かるたで「日本最初」と謳われているが、製糸器械を導入した工場としては、ごく小規模なものではあったが、前橋製糸場が日本初である(本文参照)。富岡は「本格的」あるいは「大規模」といった点において日本初の器械製糸工場といえる(cf.富岡製糸場世界遺産伝道師協会 2011, p. 90、今井 2014, pp. 44–45)。なお、当初導入された製糸器械は、人手に依存する部分も多いので、「機械」ではなく「器械」の語があてられる(長谷川 1999, p. 95、宮崎 2001, p. 216)。ただし、「器械」と「機械」の使い分けは分野ごとの慣例に基づくものにすぎないとして、当初のマシンを「機械」として問題ないとする認識を示す者もいる(玉川 2002, p. 80)。
- ^ 富岡工場への改名を1961年(昭和36年)としている文献もある(岡野 2013, p. 25、富岡製糸場世界遺産伝道師協会 2011, p. 230)。また、戦前に片倉工業が改名されたのを機に片倉工業株式会社富岡工場となっていたとする文献もある(今井 2007, p. 136)
- ^ 微粒子病は、フランス語名ペブリヌ (Pébrine) の語源が「コショウ」である通り(『ロベール仏和大辞典』小学館)、蚕に小さな黒い斑点ができ、衰弱死する病気である(今井 2006, p. 7)。ルイ・パストゥールが究明するまでは、原因不明の奇病であった。
- ^ エシュト・リリアンタール商会は、パリのセリグマン・エシュト (Seligmann Hecht) とリヨンのシジスモン・リリアンタール (Sigismond Lilienthal) という2人の貿易商人によって、1859年(安政5年から6年 ※当時の日本は太陰暦のため西暦=太陽暦との間にズレがある)に創業されたリヨンの貿易会社であり、リヨンの商社では最初に横浜に進出した(結城 2012, p. 8)。「ヘクト・リリアンタール商会」ほか、複数の表記がある(結城 2012, p. 1)。
- ^ 現存する建物でバスチャンが確実に設計したのは、繰糸所、東置繭所、西置繭所、蒸気釜所の4棟のみとされる(今井 2006, p. 51)。
- ^ 女性の繰糸工のことは「工女」のほか、「女工」などの呼び方もあるが、富岡製糸場では当初から「工女」の呼称が用いられていたため(岡野 2012, p. 54)、この記事でも「工女」で統一する(フランス人教婦の宿舎として建設された『女工館』はこの限りではない)。
- ^ 勇は安政5年(1858年)ころの生まれで(富岡製糸場世界遺産伝道師協会 2011, p. 134)、当時13歳(文化財建造物保存技術協会 2006, p. 10)ないし14歳(今井 2006, p. 61)とされる。1875年(明治8年)に富岡を退職した(富岡製糸場世界遺産伝道師協会 2011, pp. 134–135)。
- ^ 再繰式の導入理由を日本の気候に合わせたことに求める見解は、1907年(明治40年)に大日本蚕糸会がブリューナを表彰した際の理由説明に見られ、以降、ほぼ定説化している。しかし、ブリューナが後年、より湿潤な上海で旗昌絲廠を設立した際に直繰式を採用していることなどを理由に、通説に懐疑的な見解を示す者もいる(清川 2009, pp. 87, 118–119)。
- ^ 繰糸の作業は明るさが必要で自然光に依存したため、日が出ている間が労働時間となった。結果、季節ごとの変動はあるものの、設立当初は8時間、1875年(明治8年)から1876年(明治9年)ころには7時間45分となっていた(岡野 2012, p. 39)。
- ^ 当時の年度は明治9年(1876年)7月から10年(1877年)6月までだった(今井 2006, p. 114)。明治18年(1885年)度に調整が行なわれ、明治19年(1886年)度からは4月から翌3月に変更されることになる(今井 2006, p. 135)。
- ^ 1874年(明治7年)の時点で世界最大の生糸消費国はフランスであった。その消費量は1800万ポンドあまり(約8300トン)にのぼったが、そのうち1400万ポンド以上を輸入に頼っていた。世界2位と3位の消費量の清とインドは自国生産でまかなうことができており、フランスの輸入大国ぶりは際立っていた(石井 1972, pp. 19–20)。
- ^ 世界の生糸需要は、明治末期にはフランス中心からアメリカ中心へとシフトした。1907年(明治40年)から1910年(明治43年)の平均をとると、絹織物業が成長したアメリカが1900万ポンド近くを消費して世界1位の生糸消費大国となったのに対し、1000万ポンドを割り込んだフランスは、清や日本にも消費量で劣る状況になっていた(石井 1972, pp. 20–21)。
- ^ 置繭所に残っていた8万円相当の繭の代金を含む金額。
- ^ 前述の再繰式導入が日本の気候への適用のためだったとする通説に懐疑的な説では、揚返場を別に設けず、蒸気の立ち込めていた繰糸所内で揚返が行われていたことも、通説に対する疑問点として挙げられている(清川 2009, pp. 87, 118)
- ^ 「優等糸」は経糸にほぼ等しく、「普通糸」は緯糸にほぼ等しい(石井 1972, p. 35)。
- ^ 同時に繰る生糸の数。8条と表記する文献もある。
- ^ 日本の製糸企業を統合した日本蚕糸統制株式会社の社長には片倉の社長が就任した。そのため、富岡製糸所の賃貸契約書に記載された片倉社長と日本蚕糸社長の名前はどちらも片倉兼太郎である(今井 2013, pp. 54–55)。
- ^ 片倉工業としての労働組合が富岡製糸所内で同年2月21日に結成されていることから、富岡製糸所の片倉への復帰は、日本蚕糸統制株式会社の正式な解散よりも前だったという指摘もある(今井 2013, p. 56)
- ^ 前述のように、富岡工場への改名の時期は文献によって異なっている。
- ^ 入学は任意だったので(岡野 2013, p. 18)、女子労働者の中には、夜間定時制の設置されていた富岡東高校や、昼間定時制が設置されていた藤岡高校に通う者もいた(松浦 2007, pp. 147–148)
- ^ いずれ何らかの形で利活用しようという意図はあったとされ(佐滝 2007, p. 35)、実際、その用途についての検討が行われたことはあったという(松浦 2007, p. 148)。なお、閉業後も新入社員の研修には使われていた(佐滝 2007, p. 38)。「売らない、貸さない、壊さない」の方針について。これは最初、妻籠を愛する会の「妻籠宿を守る住民憲章」で1971年(昭和46年)7月25日に明文化され、同年12月25日の「白川郷荻町集落の自然環境を守る住民憲章」に継承され、町並み保存運動共通のスローガンとなった。[1][2]
- ^ 富岡市では、2008年(平成20年)度に「富岡製糸場総合研究センター」を設置した(『平成24年度富岡製糸場総合研究センター報告書』序文)。富岡市には、片倉工業から、片倉時代の経営実態に関する資料も多く寄託されている(今井 2013, p. 45)。
- ^ 1877年開業の官営新町屑糸紡績所(高崎市)は、この副蚕糸の加工のために設立された工場である。
- ^ 一括指定された重要文化財建造物のうちの一部を国宝に指定した例は他にもある。たとえば、滋賀県の「宝厳寺」は4棟一括で指定された重要文化財のうち「唐門」1棟のみが国宝指定、奈良県の「法隆寺食堂及び細殿」は2棟のうち食堂1棟のみが国宝である。
- ^ 4人の教婦の原綴および年齢(明治5年時点)は、澤 1991, p. 37による。
- ^ このような退職が認められた背景として、この時点で日本人工女の技術が、フランス人教婦の教えを必要としない水準にまで向上していたことが挙げられている(今井 2006, p. 105)。
- ^ ベラン、プラー、シャトロンの原綴および年齢(明治5年時点)は、澤 1991, p. 37による。
- ^ ベランとプラーがフランス領事館に異議を申し立て、帰国旅費の支払いなどで和解が成立した。しかし、両者は日本にとどまり、製糸所設計などを請け負う旨の新聞広告を出したが、奏功しなかった(澤 1991, pp. 245–246)。プラーは開成学校で語学や天文学の教師として2年ほど雇用された(澤 1991, p. 246)。
- ^ ボイラーや蒸気エンジンを扱ったと考えられている(今井 2006, p. 93)
出典
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- ^ 椎名高志 (2021年2月6日). “【深層リポート】群馬発 岐路に立つ富岡製糸場 新たな可能性 コロナ後に期待”. 産経ニュース (産業経済新聞社) 2021年4月25日閲覧。
- ^ a b 古田 & 古田 2013, p. 153
- ^ 富岡製糸場見学往復割引乗車券(上信電鉄、2014年・平成26年4月20日閲覧)
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