片倉重長の妻になる経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/06 22:23 UTC 版)
大坂夏の陣において片倉重長が阿梅を連れ帰った経緯については、落城時に乱取り(生け捕り)したとするものと、信繁に託されたとするもの、2つの伝承がある。 『片倉代々記』によると、阿梅は大坂城の落城に際して片倉重長が戦場で得た、つまり乱取りされたという。当初は出自が分からず、侍女として召し使っていたが、その後真田信繁の娘と分かり、後に継室に迎えたという。『白川家留書』にも乱取りされたとある。 託されたとする話は、俗伝であるが、内容はおおよそ以下の通りである。 慶長20年5月6日の誉田の戦いにおいて、伊達隊の先鋒であった片倉重長は、真田隊と激しく戦った。その時の武者ぶりが敵ながら天晴れであるというので、信繁が重長を見込んで、落城の前に阿梅らを送り届けてきたというのである。 これは片倉家の初代と2代についての話をまとめた『老翁聞書』にある話が元になっており、そこでは以下のように書かれている。 一 大阪落城の砌、城中より年の程、十六七許の容貌美麗なる女性白綾の鉢巻し、白柄の長刀を杖つきて、重綱公の陣先へ出しけり、重綱公之をつれ帰りたまひて後室とす。誰人の息女たることを語らず、其所行凡ならず、されば太閤様の御息女にもあらんかと、とり々々の沙汰なり。後その家来のもの尋来りて、臣下となる、真田左衛門佐幸村の息女とす。寄手諸将の中に片倉兼ての英名、殊に此度目を驚す、武功の事なれば末繁昌ならん事を予め斗り、容色万人に勝たれる息女なれば、捨てたまうべきにあらずと、幸村申仕置重綱公の陣の前へ、物し出したるならんと、皆いへりけるとなり。 — 老翁聞書 阿梅は身分を名乗らずに自主的に投降しただけだが、この偶然を片倉の武名により信繁が託したと人々が都合の良いように解釈したということのようである。 戦中に負傷したとして落城より先に離脱、本願寺の下間氏との血縁により、京都の西本願寺にて潜伏療養していた幸村家臣の三井景国がいる。この三井の家臣であった我妻佐渡と西村孫之進の護送により、戦後に京都の片倉家の屋敷(当時は重綱が療養中)に四女お弁、七女おかね、八女(名前不明)、そして次男大八が送り届けられた、とする話も残る。三井景国はその後も京に留まり、1619年になって白石の片倉家へ赴き庵原元鄰と共に仙台藩に仕え、守信の家臣となっている。また、片倉家領内に我妻佐渡の墓石も確認されている。この護送が史実通りなら、阿梅も乱取りによる偶然ではなく、計画通りに片倉家に送り込まれたと考えられる。
※この「片倉重長の妻になる経緯」の解説は、「阿梅」の解説の一部です。
「片倉重長の妻になる経緯」を含む「阿梅」の記事については、「阿梅」の概要を参照ください。
- 片倉重長の妻になる経緯のページへのリンク