重化学工業の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:33 UTC 版)
「大戦景気 (日本)」の記事における「重化学工業の発展」の解説
工業の中心は依然として軽工業ではあったが、第一次世界大戦が終わるまでのあいだに、海運、造船、綿紡績、銅、石灰、電力、銀行の7部門では独占資本が確立した。「産業の米」とも称され、工業生産の基礎となる鉄鋼業は、大戦による輸入途絶や造船業をはじめとする各工業部門の急激な発展を土台として、福岡県の官営八幡製鉄所の拡張や南満州鉄道の経営する鞍山製鉄所の設立のほか、1917年に制定された製鉄業奨励法の後押しもあって、三菱の兼二浦製鉄所の新設など、民間製鉄所の新設・拡張が相次いだ。また、東アジア地域への資本支出もさかんとなり、中国の漢冶萍鉱山(湖北省大冶市)からは安価な鉄鉱石がもたらされた。 大戦による世界的な船舶不足によって、海運・造船業は急激な発展をとげた。海運業は世界第3位にまで急成長し、造船技術も世界のトップレベルに肩を並べるまでに達し、造船量も米英に次いで世界第3位に躍進して、いわゆる船成金が続出した。しかし、船の材料となる鉄鋼は当初大幅に不足したため、鉄鋼価格は高騰し、「鉄であれば何でも買え」と指令を出した鈴木商店は大躍進を遂げた。また、アメリカが輸出禁止としていた鉄鋼の輸入をとくに認めてもらうかわりに、完成した船舶を輸出しようという「船鉄交換」もおこなわれた。「船鉄交換」は1917年に実現している。 化学工業は、その基幹部門をなす合成染料と化成ソーダがそれぞれドイツとイギリスの独占におさえられていた。薬品や肥料もドイツからの輸入が多かったが、これら化学製品がいずれも大戦によって輸入が途絶えて品不足になったため、国内生産の確保が必要となった。1915年には染料医薬品製造奨励法が制定され、翌年には政府の補助により日本染料製造が設立されて染料の国産化が開始された。すでに生産が開始されていた過リン酸や石灰窒素においては莫大な利益を得ている。このように、化学工業は、政府の手厚い保護奨励策もあって新興産業として発展の基礎をかためた。 日露戦争後から発達をみせていた電力工業も水力発電を中心にいちじるしく発展し、以後の躍進の基礎を固めた。1914年には大規模水力発電所である猪苗代第一発電所が竣工し、翌年には猪苗代-東京間228キロメートルの送電が成功して、高圧長距離送電が可能となった。電力は、大戦を契機に原動力および照明用としてひろく普及し、原動機の総馬力にしめる電動機の割合は1909年の16パーセントから1919年には62パーセントに拡大して蒸気力をうわまわった。また、余剰電力を利用しての電炉工業や化学工業も勃興した。電力は、他の動力にくらべ低コストであったが、水力発電の開発によって電力価格がさらに廉価となったため、一般家庭や地方都市における電化が進展した。第一次大戦期は、このようなイノベーション(技術革新)の時代であった。 機械器具工業では、工作機械、船用機械、電気機械など、広汎な分野において生産が拡大し、また各部門とも、資本金・生産能力・労働者数などすべてにおいて大きな発展をとげた。特に電気機械は国産化の進展をみた。
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