製鉄遺跡の変遷と時代背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 15:28 UTC 版)
「横大道製鉄遺跡」の記事における「製鉄遺跡の変遷と時代背景」の解説
陸奥国の行方郡と宇多郡(現在の福島県東北部、相馬市、南相馬市など)では、7世紀後半頃から製鉄が盛んに行われた。当地の製鉄は、ヤマト政権の東北経営や、当時の政治・軍事状況と密接にかかわっていた。 海岸近くの金沢地区製鉄遺跡群(南相馬市原町区金沢)では、7世紀後半には製鉄が始まっていた。陸奥国が設置され、中央の支配がこの地まで及ぶのが653年頃であり、金沢地区の製鉄施設は、官衙の造営、武器武具の製造などのための鉄供給を担ったとみられる。横大道遺跡で製鉄が始まるのはこれより遅れて8世紀後半である。この時点(横大道遺跡における第一段階)の製鉄炉は箱形炉であり、第3廃滓場跡(箱形炉の炉壁が出土)がこれにあたる。踏ふいごはまだ用いられず、羽口を用いて送風していた。 第二段階は引き続き8世紀後半で、この時期にはそれまでの箱形炉とは系統の異なる竪型炉が用いられる。環状遺跡内にある4号 - 9号製鉄炉がこれにあたる。 第三段階は9世紀前半である。この時期は蝦夷の反乱が頻発した時期であり、行方郡・宇多郡においては製鉄の最盛期であった。この時期には踏ふいご付きの箱形炉が用いられた。1号廃滓場跡(箱形炉の炉壁が出土)がこれにあたる。 第四段階は9世紀後半で、10号製鉄炉、11号廃滓場跡がこれにあたる。この時期には生産は小規模になり、製鉄炉は第二段階のように同じ地点に複数の炉が築かれるのではなく、単独で築かれるようになる。この時期には陸奥国の蝦夷は大方鎮圧されていたが、出羽国においては蝦夷の反乱が続いていた。また869年には貞観地震があり、震災復興のための鉄の需要もあったとみられている。 陸奥国の製鉄が、当初海岸近くの丘陵地で始まったのは、海岸で砂鉄の採れることと、舟運による運搬の便、燃料となる木材が得られることなどが理由として考えられている。8世紀後半になって、製鉄施設が内陸に展開した理由については、木材資源の枯渇に加え、炉壁の素材となる良質の粘土が得られる場所を選んだという理由も挙げられている。
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